Twitterから漏れた最近の話

たまにダラダラと文字を連ねたくなることがある。まとまっていない考えを放出したいことがある。なぜそうしたいのか考えてみたが、今この瞬間の思考や迷いを決めつけておきたいからだと思う。人間は、特に若者はよく悩むし、よくクヨクヨする。強そうに見えるあの人も、何も考えてなさそうなあの子も意外と悩んでいるし、意外と葛藤している。そんな若者の一人だと自分も思う。だから、今この段階での感情を記録しておきたいのだと思う。

今、この部屋にはタバコと本とブルーノマーズが陽気な音楽を流している空間だけがある。最近購入した明るい茶色の革製のソファに身をゆだね、珈琲片手にモノを書いている。彼の陽気な音楽は私の気分とは反している気もするけれど、勝手にノリノリになっている彼の音楽を適当に流しておくのは、幾分か重たくて寒い空気が漂う雨の夜にはよく似合う。というか、彼の音楽は暖かい部屋で、黄色の電気が光る部屋にこそふさわしいとすら思う。

私の垂れ流しているエッセイが誰かの気づきや勇気になり、また図星を突き刺すような文章に仕上がっていけばいいと思っている。まだ作家でもユウメイジンでもないので、私が与える影響など、ごくわずかな人にしか及ばないとは思うが。

年が明けて気分が晴れやかという人間では元来ないのだが、考えねばならぬことが目の前のことも少し先のことも盛り沢山で、なかなか新年やら迎春という気分にはなれなかった。そういう年明けも印象的に残しておくのは大切だと思う。

生きてると皮肉な出来事、タチの悪い偶然というものに出くわすが、能天気で気づかない人間を見ていると、いつでも理由付けしたり辻褄を自分が合わせているだけであったり、深読みをし過ぎているだけなのだという事を見せつけられる。このタチの悪い偶然に対して、難癖付けて笑いに変えるのが芸人で、妄想を膨らませて感情を言語化していくのがモノ書きなのかと感じる。これはあくまで気質の話だが。

つい数か月前、仕事でライティングを狂ったようにしていた二ケ月間があった。先端技術を扱う会社のメディア立ち上げというとたいそうなプロジェクトに聞こえるが、要するにベンチャー企業の臨時ライターになったということだ。その二か月間はとにかくよく勉強したし、とにかく文字を書きなぐったと思う。この領域について詳しくなるぞであるとか面白い文章書いてPV上げるぞなどと意気込んでいたが、そもそも面白い文章が書けたからと言って、コラムでもないし0から立ち上げて書いているのだから、誰にも基本的には見られない。
見られることが一番のモチベーションではなかったからなんとか書くことに集中できたものの、最初から何かを期待する訳でもなかったからよかったものの、ここまで文章の良し悪しというのは評価の対象にならぬものかと少し面食らったのであった。そもそも、良い文章が書けているという自負を持つこと自体高慢だし、素人臭いなぁと思うが、当時の私は面白い文章と臨場感のある文体だけを追って素直な記事をかけていたと思う。

しかし、「ダラダラ」と文章を書くことはよろしいが、現在の心境の実況中継は避けねばならんと感じる。それらはまだ輪郭を帯びていない感情の波でしかなく、そこから次の成長に繋がるような自身の図星を付くような気付きであったり、言いえて妙な一言を探すのは砂を選別して砂金を集めるような作業であると感じる。私の場合はであるが、感情の波の多くは通り過ぎるものであり、大したことでもないことが多い。ただ多感な季節なのだと思う。そういうことにしている。

最近、夜食で蕎麦を食べることが多い。大抵、キムチや卵、またはその両方をのせて食べる。一世一代の減量を宣言したにも関わらず私は夜な夜な何をズルズルと食べているのだろうか。もう少しヘルシーな夜食を探求したいものだ。そんな罪悪感でたまらなくなる私だが、夜食の話で印象的なのが、めちゃくちゃに太った後輩君が言っていたことである。彼は豊満という言葉がちっぽけに感じられるほどに大きな体を持ち、高校ラグビーでは様々な有名高校選手たちを文字通り蹴散らしてきたスポーツマンでもある。
そんな彼が、私が減量したい旨を伝えると目を細めて笑いながら「好きなもの食べて早く死ぬのが一番幸福でしょ!食べたいときに食べたいもの食べないともったいないっすヨ。」嬉しそうにツナマヨおにぎりを頬張りながらあまりにあっけらかんと言い放つので、私が当時感じていた罪悪感などは等に過ぎ去った。
美味いものや食べたいものを欲したタイミングで食うというのも幸福の形であるか・・・この心情に至るまでにあと何キロ大きくなりゃいいんだ・・・などと考えたものである。私の罪悪感はまだ一ミリグラムも軽くはならない。




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