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あの日見た夢の断片。

ある日、日々の業務から解放された私は何気なくテレビを見ていた。仕事終わりのお決まりのルーティンだった。鍵を所定の場所に置き、荷物をソファに投げ捨て、買い物袋から食材を取り出して冷蔵庫に入れる。洗練された仕事終わりのルーティンは今日一日がどれだけ壮絶なものだったかを物語る。

今日はシチューにしよっと。誰もいない部屋で私は呟き、黙々と下準備を始める。

煮込みに入り、少し手が空いたので机の上を簡単に片付けていた時だった。聞き慣れた、いやむしろ聞きたくてたまらなかった声が、テレビによって出される独特な空気の波に乗って耳に入ってきた。

ほとんど動物のような反射神経でテレビの方に顔を上げると、そこには何でもない運送会社のCMが流れていた。
一つ大きな違和感を挙げるとしたら、そこに出演しているのは、かつて壮絶で甘美な日々を過ごした女性だということだ。

その子があまりにも美しい声で運送会社の名前を呼び、キャッチコピーを叫んでいる。
釘付けとはまさにこの事かと思った。それと同時に、私くらいしかこのCMには釘付けじゃないだろうなとおかしく思ったりもした。

今まで、彼女のことを思い出すのは意図的に避けてきた。思い出してしまうと、後悔と恥辱の波に自分が押し潰されそうになってしまう。手先足先が痺れ、頭がボーっとし、体が重くなって地面と同化してしまうような感覚に陥ってしまうからだった。

だが今日は半強制的に思い出されてしまった。目の中にある水晶体が、彼女の虚像を強く取り入れようとしているとしか思えないほどそのテレビから目が離せなかった。
後悔と恥辱の波が来ると身構えたが、やってきたのは曖昧だが幸せな記憶だった。

記憶というのは自分に向けば辛くて、人のことを想いながら遡れば意外と悪くないんだとその瞬間悟った。それと同時にこれが愛なのかもしれないと陳腐で答えのないことを考えたりもした。

そうか、元気でやってるのか。とりあえずよかった。もう半分親戚の娘を見るような、遠くを見る眼差しでしばらくテレビを流し見していた。とっくにそのCMなど流れていないのに、脳が映し出すものは先刻の映像だった。

ノスタルジックの渦から現実に舞い戻ったときには、既にシチューは煮込まれすぎて鍋の周りは液体が焦げ付いた線が何本もでき、底は真っ黒になっていた。あの時と同じく苦い味だった。

次の日、近くのコンビニに荷物を送る為に足を運んだ。

入った瞬間に人がやけに多いことに気づいた。なにかの事件があったか、超人気商品が今日から始まるかの二択だった。行列に並ぶのも、野次馬の一部になるのも嫌で堪らなかった。

飼い慣らされた家畜共め。と強い嫌悪感を覚えつつ、店を出ようとした時、ほとんど目の端にしか映っていないはずの女性に脳が反応した。あれは自分ではなく明確に脳が自我を持って反応したのだと言える。

脳が反応した女性は件のCMの女性だった。正確には壮絶で甘美な日々を過ごした女性だ。より正確に言うと好きだった女だ。

女も私が気づくのとほぼ同時に脳が反応したらしかった。お互いがお互いを目の中心に捉える。まだ体は正面を向いていない。確実に言えることはこのまま何もなく時が過ぎるはずは無いということだった。

引き寄せられるように彼女の元に足が運ばれていった。目の端に彼女を捉えたあたりから私の脳は自意識を持ち、暴走を始めていた。もはや私の意思などそこには存在していないかのようだった。

彼女は近付いてくる私に特段警戒する様子も見せず、申し訳なさからくる後悔と純粋に私に会えた喜びのようなものが混ざった苦笑いとも言えず、泣く前とも言えない顔を向けてきた。

ヒサシブリ。口が音を出すことを忘れたような片言だった。ああ、また嫌な記憶が1つ増えたと肩を落とす前に、彼女がニコニコ笑いながら、久しぶりだね!と微笑んできた。
彼女の口は事前に私が来ることを知っていたかのように滑らかに動いた。

本当にあの時はごめん。次に彼女の口から出てきた言葉は謝罪だった。絶対に自分から謝るような女ではなかったはずだ。私が知らない彼女を見て動揺しているのを感じ取ったのか、立て続けに、ほんとうに申し訳ないと思ってる。許されるとも思ってないけど、やり直せるならまた友達からやり直したい。

そう彼女は言った。ずるいとは思った。だがそこから来る怒りより、また私の世界に彼女の色が足される喜びの方が圧倒的に大きかった。
もう少し彼女を受け入れるまでには時間がかかりそうだけど、楽しそうなことだけは間違いなかった。
そんな期待と少しの不安を胸に抱きながら店を出た。

おわり。

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