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学力は測れるのか?

「学力」「勉強」など皆当然のように使っている言葉。
その言葉の意味は皆同じように認識していると考えている人が多い。しかし、実は個人個人少しずつ違った捉え方をしているのではないか。このことに気付かないせいでなんとなく議論が噛み合わない、などということもある気がする。少しまとめてみようと思う。

「学力」というものの捉え方

 一般的にはテストの点数で測れるものを「学力」と考えている人が多い。ニュースなどで「学力が下がった」などと言われるのはそのためである。辞書で確認すると

「学習によって得られた能力。学業成績として表される能力。」

とあるので、概ねその認識で間違いはない。しかし、一方で、文科省の文章では

[確かな学力]とは、知識や技能はもちろんのこと、これに加えて、学ぶ意欲や、自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力等までを含んだもの

とあり、より包括的な部分まで含んでいる。私自身も「学力」という言葉には後者の意味を持たせることが多い。前者の「学力」を「知識・技能」と捉えれば、あくまではそれは学力の一部であるという考えだ。この考えでいくと学力とは、少なくとも定量的には「測れないもの」となる。ここに教育の難しさがある。

やはり「測れる能力」が重要となる。

 思想的には「確かな学力」を目指して教育を行うことがすべてであるが、社会的にはどうしても評価が必要となる。その教育が効果的なのか、正しく機能しているのかを客観的に見たいと思うことは当然のことである。しかし、前述した通り学力とは定量的には測れない能力であり評価は難しい。だが、その一部は測ることはできる。「知識」である。

 「知識」はテストを行えば、少なくともその時点での知識の量・正しさを点数として評価することが可能である。数字で表すことにより誰にでも理解しやすくなっており、教員以外にも簡単に評価できてしまう。対してそれ以外の能力に関してはプロの教員でも評価が難しい。となれば一般の人が見えやすい「知識」=「学力」と捉えてしまうのは自然な流れである。従って、一般的には「学力」と言えばテストの点数のことであり、点数を取らせることができる教育が良い教育、という認識となる。最近ではだいぶ社会の風潮も変わってきたとはいえ、まだまだこの考えは根強いということは間違いない。

 教育者はプロとして世間の声に流されず本当に必要な力「確かな学力」をつけるために日夜勉強を続け実践していく、ということができれば良いがそれは難しい。なぜなら教育のステークホルダーには「生徒」だけではなく「保護者」も入るからである。多くの保護者が見えやすい指標である「学力」に影響を受けるのは当然である。「数字には見えないけれどいい教育してますよ」と言ったところでそれを認めてもらうのは難しい。

 「生徒のために本当に付けるべき力」と「学力」

 この2つが完全には一致していないというところが難しい。また、この2つを混同しているように感じる教員がいるのも事実である。これから改めて「教育について」「生徒の身につけるべき能力」などについて考えていきたいが、例えば今回の「学力」のように認識が個人個人でずれているものを扱うときには一度きちんと確認をしておくべきである。
 一般の認識に合わせて「学力」=「知識(テストで測れるもの)」としておき、その他の能力に関してはそれぞれ言葉を定義しつつ考えたいと思う。

 

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