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「管理教育」とその対となる考え方         

「良い学校」とは?

きちんと挨拶をする。
きちんと制服を着こなす
きちんと周囲に気を遣える
きちんと真面目に勉強する

いずれも大切なことで、そうあるべきであると思う。
しかし、これに「生徒みんなが、いつでも」という頭を付けると私は疑問を感じる。
勤務する学校には2000名以上の生徒がいる。多感な時期にある中・高校生が皆同じ行動をする。これは正常なのだろうか?
成長のタイミングはそれぞれ異なるし、たまには外れてみたいときもある、そんなもんだろう。
それでも外から見たら「みんなが、いつでも」この状態である学校を「良い学校」と呼んでしまう。そのため、学校は管理教育を徹底してきた。

管理教育とその対義語

管理教育とは何か?
一言で言うと

「正解が教員や社会の中にある教育」

である。そのため正解に向かって教師が努力をしてしまう。秩序ある社会を維持するために当然のことではある。社会が安定している時には大きな問題はないのかもしれない。ただ社会が大きく・早く変革をしている現在では、その正解自体が変わってしまう。ゴールポストが絶えず動いてしまう状態ではこの考え方が通用しないのではないか。
その対となる考え方は

「正解が生徒の中にある教育」

であると思っている。うまい言葉はまだ浮かばないが、現在はこの重要さを感じている。
個性重視の教育などという言葉もあるが、何となく「何でもあり」な感じがしてしっくりこない。
学校教育単体で存在するものではなく、例えば家庭教育・地域教育などの基盤となる部分で人格教育が施されていれば、社会貢献の在り方、人生の選び方はそれぞれの主体的な選択によるべきであると言う考え方である。

現在の高校生は

私の受け持っているのは偏差値の高い進学校の生徒なので、ある程度狭い範囲の話にはなるが、生徒達を見ていて感じるのは

「真面目であるが覇気がない・進学校なのに勉強しない」

と言うこと。理由は様々であろうが

・現在の生活に困っていないので危機感がない
・自分の人生は半自動的に決まる(誰かが決めてくれる)と思っている
・勉強は基本的に楽しくない

といった雰囲気を感じる。
こうなってしまうのも、幼い頃から正解の決まったものを覚えることが「勉強」と言われ、勉強以外の服装・言葉遣い・行動などすべてに正解・不正解があると教えられる現在の教育システムの影響が大きいと考えている。
極端な言い方をすると

「何も考えずに正解をトレースできる人が優秀な人」

とも捉えられてしまうのだ。これでは人生にオーナーシップを持てるはずはない。

「正解が生徒の中にある教育」へ変えていくには

まずはもっと生徒を信用することであると思う。
教員は良い学校・良い教員と言われるために「みんなが、いつでも」キチンとしていることを望む。これに反する生徒は「サボっている、反抗している」と考えがちだ。本当にそうだろうか?
違反をしたり注意されるような行動をするのは、生徒なりに社会に対して疑問を持ち始めたからとも言えはしないだろうか?それはすなわち自分の力で歩き始めたということなので本来喜ぶべきことなのだ。決して我々や社会を困らせよう、と思っているわけではない(もちろん全てではないが)。
多くの生徒達は成長欲があり、社会貢献もしたいと考えている。そのことを信用してもっと人生を生徒自身に任せるべき。そして生徒へは「指導」だけではなく「対話」重視で望むべきである。
そうつまりは教員の考え、マインドセットを変えることが最も重要にして、唯一のことなのだ。

まずは授業から変えていこう

まずは授業から変えていこうと言うことで現在行っている授業スタイルについて書いてみようと思う。偶然Xで見つけた

こちらの齋藤先生のやり方に似ており、だいたい同じ感想・結果を得ていると感じている。ただし、いつものことではあるが、教育効果を定量的に図ることは難しいので実施してみた感想・感触、生徒からの反応による判断は多めとなる。
が、少し長くなったので今回はここまで。詳しくは下のリンクからどうぞ。

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