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淡さの中の世界

年上の友人との、今夜のゲリラ的対話セッションの記録。

 今日のセッションの入り口は、曹洞宗大本山永平寺の食に対する作法。曹洞宗の開祖道元は、食もひとつの修行であると説いた。命をいただき、今ここに自分があることに感謝する。それを作法をもって深く腑に落としてゆく。

 食材は決して無駄にはせず、全ての食材を差別・区別することなく大切に扱う。そしてそれらを調理する際は、淡さを残し、それぞれの個性を楽しむことで命に恩を返す。
 本来命や物質自体に上下はなく、それら一つ一つが折り重なって自分という現象が存在する。それを身と心をもって実感するために、淡さが重要なのである。

 禅宗における食と人との向き合い方に類似する概念として、生物学の領域において提唱されている"動的平行"を教えてもらった。動的平衡の意味は完全に理解しているわけではないが、要するにあらゆる生命は動的にその平衡を保っていて、それ自体が物質的に常に同一的であるわけではないという考え方だと解釈している。生命が生命たらしめているのは、あくまでそれが巻き起こす現象であって、その物質自体ではないと。

 諸行は無常であること、自分というものさえも無常であることを、生物学的に説明すると動的平衡という言葉が確かにふさわしいかもしれない。

 自分というものは物質的に一定ではなく、常に流動的に入れ替わっている。昨日はほうれん草っぽいものだったのが、今日は相馬大和っぽくなっている。大きな流れの中で自分の一番近くにいる存在が、食材と老廃物なのである。

 ここでふと思ったのが、「同じ釜の飯を食べる」人同士は、物質的にほぼ同一人物であるという事である。
 その仮説によって考えうるのは、生命はそれが巻き起こす現象そのものとはいうものの、その現象を起こしているのはあくまで物質であって、同じ物質であれば似た現象を起こす事もありうる。つまり、同じ釜の飯を食う人間同士が起こす現象は、精神的にも身体的にもシンクロするのかもしれない。
 また、同じ釜の飯を食べ、その食事の淡さを噛み締め、大きな流れを心身で感じ、自他の境界など無いに等しく曖昧だということを理解することで、より良い環境が築かれるのではないかと再認識した。

 人間は地球という生命体の動的平衡を破壊しつつある。破壊というよりは、人間にとって都合のよい新たな流れを強制的に作り出そうとしている。これは、どんな生命体においてもいえる。ある種の競争をもって平衡が生まれる。
 ただし、ある力点にかかる力が強ければ強いほど、流れが大きく変わってしまう。どの状態においてもベストというものはないが、人間たち自身にいつかその力が跳ね返ってくることは目に見えるし、現に起きている。生態系の頂点の生物が増え過ぎれば、いつか飢餓状態に陥り、また下層の生命の割合が増える。それだけ強大な力を持っていることを自覚し、都合のいい時だけ人も自然の一部だと逃避するのではなく、誠実に向き合わなければならないと思う。
 飢餓状態に陥いる未来の人類のためを思って、欲望にセーブをかけることは大切だ。道元はこの状況を危惧していたのかもしれない。

 だが、個人的にとても悲しいのは多様性の消滅である。地球という生命体における、この多様で美しい生命のダンスを楽しめない人生は、なんと貧しいことか。万物の縁を感じる必要性を、危機感からではなく、ポジティブに伝えたい。淡い世界の美しさや尊さをもって、和の心を広め、みんなで最高のハーモニーを奏でたい。
 

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