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吹く風の意味

 海上は時化が続いている。長周期の大きな波が自らの体を維持できなくなり白く砕け散った。その力は砂浜を洗い、磯を洗い、港を洗う。魚も姿を消してしまい、私は途方に暮れていた。

 そんな日々が続く中、突然凪が訪れた。

 合図は風向きだった。冬に向けて北東風や北西風が吹き続ける肌寒い陽気の中に、少しだけぬくもりを感じる。一瞬ではあるが、穏やかな南風が吹いたのだ。ホコリをかぶりそうになっていた竿を持ち出し、私は夜半の海へと駆け出した。その道中、やはり同じ考えの釣り人たちの影がちらついてつい笑ってしまう。まったく、どいつもこいつも考えていることは同じなんだな、と。

 風は全球の空気の温度差や気圧差によって引き起こされる、全くの自然現象だ。私達はその機構を理解し、今では高精度の予報をすることもできる。「なぜ風が吹くのか」という問いへ、私たちはこのような「事実」に依拠した形で応答することができる。
 しかしながら「この風に意味があるのか」という「価値」に依拠した問いへの回答はなかなかに難しい。三者三様の答えがあるだろうし、そもそも自然現象に意味は存在しない、と突き放すこともできるからだ。だが釣り人は、この問いに対し独自の、そして釣り人であればある程度合意し得る価値観を持って答えるだろう。曰く「風が止み、水面が凪いだ状態ではアミなどのプランクトンが海面まで浮上する。それにともないその捕食者である大型魚も海面付近に集まってくるはずだ」「時化によって小魚は湾内に退避してきている。風が止んだこのタイミングで捕食が始まるはずだ」などと枚挙にいとまがない。それは農業や漁業、林業など、山川草木に触れる(あるいは触れざるを得ない)人間の他の活動と同じことだと思う。
 きっと私や、同じく夜の海に駆け出した釣り人たちは、おそらくあの南風に意味を見出したのだ。結果は今ひとつであったが、あの一瞬とも言える僅かな南風に反応したことは、私たちが吹く風の「価値」を理解した瞬間でもあったのだ。

 このことが私を励ます。

 私たちはひょっとすると、風や海、そして魚への信頼を取り戻せるのではないだろうか。発せられる何らかのサイン、メッセージとその意味を理解することができて、人ははじめて他者をコミュニケーション可能な対象と捉えることができる。風にも表情があり、歌声があるのだ。そのことをわずかばかりでも悟ったときに、風は、海は、そして魚ははじめて私にとっての他者としてたち現れ、そして信頼(もしかしたら私の独りよがりなのかもしれないが)し得る者としての交流がはじまる。もちろん世の多くの人々と触れ合うときにそうであるように、私も風の一部しか知らないし、誤解するし、傷つけてしまうだろう。風の方はといえば、私のこのような想いなど素知らぬことだろう。しかしそれは信頼の現れ方の一つでもあるのだと思う。だからたとえ釣りが遊びに過ぎないのだとしても、それはきっと海への信頼を取り戻す契機ともなるのだ。

 明日、また時化がおさまる。そうしたら私はもう一度釣りに出かける。すぐにまた次の時化がきてしまうだろうから、明日が今季最後の機会になるだろう。そうして何万回もの時化が訪れ、何万回もの釣行が繰り広げられてきた。明日の釣行も、この何万と一回目の釣行として、誰に知られるでもなく連なっていく。その先に海への信頼を取り戻す日が来るといいと、私は真剣に願っている。

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