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だんだん消えていく

 遠い日々を思い出すような夕暮れだった。
 さすがの酷暑もいくぶん和らぎ、いよいよ自他の境界が曖昧になる頃合いに、ようやくアジの群れがやってきた。型の小ささが季節を告げている。今日も私は彼らを待っていた。晩酌のツマミになる分を釣ったら、長居せずに帰るつもりだ。
 やってることが変わらないな、とひとりごちる。子供の頃と同じいつもの港の同じ場所。そしていつもの魚。子どもの頃、私はやはり同じようにこのひとときを楽しんでいた。安物の竿に釣り針をつけて、エビ餌で小アジや小サバと遊んでいた。よくも飽きずに何十年も、と笑ってしまう。唯一変わったのは道具立てだろうか。今私は、最新のルアーロッドに最新のリール、魚類研究の最先端にあるようなルアーを用意して彼らとのひとときを楽しんでいる。この変化は確かに釣果を変えたが、同時に私の海に対する理解の仕方を変えたように思う。

 子どもの頃、私にとって海はそれ以上のものではなかった。子どもは豊かな感性を持っていて、とか、自然をありのまま捉えて、といったようなことは少なくとも私にはあてはまらなかったようで、海はただ漫然と海であるにすぎなかった。時折なぜだかわからないが魚が釣れる。偶然性という大海を漂う幼い私に、その術理を理解することはできなかった。もちろん今だって理解してはいない。ないがしかし、その偶然の一歩手前になにがしかの術理があり、その理解がすすめば魚に出会う可能性が高くなることを知った。さまざまな土地のさまざまな海を見つめる機会に恵まれたことで、点に過ぎなかった発見が線で結ばれ、先は面をなして、眼前の海の広がりをなんとはなしに想像することができるようになった。そして進化した道具や全国的に共有される釣法を参考にすることで、同じ場所でもできることの引き出しが増えたように思う。
 このことは私の釣人としての成長の結果なのだろうか。はたまた釣り道具の進化の結果か、それとも全ては単なる勘違いで、あの日々から何一つ変わっていないのだろうか。時折、そのあたりを確認しようとして、使い慣れた最新の道具ではなく、子供の頃に使っていたようなシンプルな道具を使ってみる時がある。リールを使わないのべ竿、安価なナイロン糸とウキ、袖針にはアミエビ。

 日が暮れて、常夜灯がウキを照らす。明暗の境に針を運ぶと、小気味よくウキが沈む。このあたりの所作も、あの頃とそんなに変わらないように思う。釣人としての成長が、釣りの腕の上達を意味するのであれば、私は全く成長していない。だからもし、私が釣人としてあの頃から変わった点があるとすれば、それは技術や知識といった外形的なものではなく、海を見るま私の内にあるのかもしれない。
 どうしようもなく死にゆく私は、いつだって後戻り不可能な旅路を生きている。片道切符しか持っていないこの私は、未来になりつつある現在を生きている。同じ場所で同じ釣りをしていて、昨日の竿の一振りと今日のそれとは所作において全く変わるところはない。ただその竿を振る私の在り方が違うだけなのだ。傍から見てもきっとわかることではないだろう。誰かの心の奥にある遠い日々のことと同様、それはかすんで、古ぼけていて、他人からはうまく認識できない小さな地層のようなものだ。

 私が生きる時間軸では上手く捉えることができないというだけで、この列島では山川草木すらもひさしくとどまりたるためしはない。今日の明日で急にダイナミックに変化する、という事件はほとんど起こらない。全ての変化はきっと、夏の夕暮れの中に秋の陰りが見えてくるように、あるいは私が呼吸するたびに死へと向かうように「だんだん消えていく fade away」ように起こるものなのだろう。

 小ぶりだが色のよいアジが五匹ほど釣れた。すっかり暗くなってしまったが、これで今夜のツマミは充分だろう。なんなら明日の朝は塩焼きにしてもよいかもしれない。こうして一日の釣りが終わり、きっと明日また同じような釣りが繰り返される。その日々の中で、だんだんに私の中の何かが変わりゆくのだと思うと、この旅路が少し楽しみにもなるのだ。


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