読書感想文 『檸檬』

 十分に眠ることができ、食欲もあり、仕事もなんとかこなして社会生活を営むことができているが、最近心が浮き立つようなことがないなとふと思いたった。最近の私である。
 冷静に俯瞰して生活に不自由なく、別段人様に文句を言われる生き様でもないのだが、それならば今この瞬間に満足か、明日死んでも未練はないかと問われれば、素直に頷くことができない。
 現代の精神科医にでも罹ればそれなりの病名と処方を受けて、私の「病気」は処理されてしまうかもしれない。でも肝心かなめの部分を見過ごして、無視してはいないだろうかと思う。冒頭の「えたいの知れない不吉な塊」を読んでそのようなことを考えた。肺尖カタルや神経衰弱ではない、もっと最深にありもっと曖昧な何かがこころを圧している。

 言っても人生は壮大な暇つぶしみたいなものだから、長すぎる時間を過ごす気晴らしとしてエンタメが必要になる。でも不思議なことに、このようなときに限って、好きだったはずの音楽を聴いたり本を読んで気分が高揚するとか、塞ぎこみ気味の自意識から意識を背けられるほど没頭できないのだ。その瞬間ちっとも幸せを感じることが出来なくなっている。
 実は、好きな音楽も文学も瞬間風速として自分の心に吹かせただけなのではないか。好きなものは(いつでも無条件で)好き(でありつづけることが保障されている)ものでは全くない。文学は(誤植がない限りは)当然内容は同じだし、音楽も録音芸術としての技術を発展させて以来、変化することなくそこに存在するものである。
(蛇足だが、文中でも「蓄音機」が登場していて、これは録音芸術文化の原点だ)

 とすれば、本来不変のはずのものを変容させてしまうのは、自分自身以外の何物でもないではないか。もう少し突っ込めば、自分自身の知覚刺激、これに反応して感じられる「こころ」である。この問題は知性によって解決することが出来ない。感性は知性とは裏腹にも作用するし、知性の働きを無視できる。知性はここでは無力である。だから意識の表層に浮かんでくる知覚刺激の海で漂うことしかできない。そして、別の拠りどころ(むしろ依存先)を、その瞬間に目を引くものを、何かの感情を心のうちに惹起するものを探し求めて街をふらついてみたりしてしまうのだ。

 その瞬間の答えとしてさまよった果てに行き着いたのがまさしく「檸檬」だった。檸檬の色、形、温度、そして重さ。興奮と幸福は知覚刺激のあとにやってくるものだ。

 最後に檸檬は鬱屈した現実を吹き飛ばす爆弾に見立てられてしまう。埃くさく、重苦しい丸善は爆発で木っ端みじんとなり、筆者は次の「檸檬」となる存在を求めて、変容しつつある自分自身とともに人生を漂っていくのだろう。檸檬は瞬間の知覚を象徴するからこそ、爆発して現実もろとも無くならなければならなかった。この小説は檸檬をフィルターして見える筆者自身の内面の小説であった。

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,500件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?