「訂正する力」読後感想文

『ものごとをまえに進めるために、過去と未来をつなぎなおす力。それが本書が言う「訂正する力」です』

 訂正する力という表現ですべてを代名しようとするので、すんなり頭に入らない表現も一部あるが、物事を進めるためにリセットをすること(=0)、もしくは現状を頑なに挟持し続けること(=1)の中間に存在する考え方のことを指している。ゼロイチの対極とは、中庸の思想ともいえるのだろうか。「極端に考えすぎるな、柔軟になれ」とは一見当たり前の主張だが、近年の日本では極端な考え方が横行してこの「当たり前」が失われつつあるということについて、色々な場面がすぐ思い当たる。文中では右派(リベラル)⇔左派(保守)という対立項が主軸に据えられている。
極端な思想としては「論破」の流行があり、「陰謀論」の流行がある。ひろゆきを代表とする「論破」のやり口は、ディベートのようにゲーム性・フィクション性を前提にして建設的に議論するものではない。
 論理性・一貫性の破綻を指摘することで、「相手は誤っている」というレッテルを貼る=過ちを属性化することを本懐としている。孫氏の兵法ではないが、相手の逃げ道を絶ち一方的に封殺してしまうと、やられた側にその原因を求められたにしても、(この場合原因の有無というのは重要な内容ではないのだが)、指摘を認め訂正することを難しくしてしまう。追い詰められると却って頑なに抵抗してしまうものだ。
 そして陰謀論の流行は、社会が本来持つ「複雑さ」を理解し受け入れることをせず(できず)、単純な構図による明快な物語を信じ込んでしまうという背景事情があるだろうと推察する。単純な結論は理屈がシンプルになるからか、結論はそれ以上でもそれ以下でもないものになる。だから、頑固になりやすい。「じつは~だった」という振り返りによる訂正が機能しづらくなる。以上は一例だが、日本は考え方の柔軟性、「訂正する力」を喪失してきたということで、日本の国家としての行き詰まり感につながっている。

 「訂正する力」の喪失は昭和時代の終わり以降から顕著になったと思われる。本書で述べられていなかったが、一点思い当たった実例があった。「離婚」の件数の増加である。結婚という営みは継続すること、老いること、時に過ちを認め妥協点を探ることという要素を含む。「訂正する力」の面目躍如の場である。婚約の関係性を維持できず離婚してしまう割合が増加すること、すなわちリセット化傾向が増加していることとしてダイレクトにリンクする。
 離婚件数の絶対数の統計データ(ref.厚生労働省)を見ると、昭和25年以前は10万件/年以下で推移しているが、昭和35年以降漸増しはじめ、平成以降急激に増加の傾向がみられる。平成14年の28万件程度をピークに減少傾向にあるが、これらの背後で同時に人口の増減があるため、実際には離婚の割合は横ばいか増加傾向に近いのではないかと思う。一方、昭和前半期の離婚率の低さは、現代の人口および低結婚率からみて、かなり低いことが明らかだと思う。核家族化の進行など、複合要因も考えられるが、根本的には夫婦間の関係性に依拠するのだから、全くの的外れということもないだろうと思っている。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/rikon22/dl/suii.pdf

 それで、極端な結論に安易に到達するのではなく、熟考の末AでもBでもないCの結論に軟着陸することが大切、という考え方には私も同意なのだが、「訂正する力」の実践をどのようにすればよいかということが肝心だ。
 文中でも指摘されていたが、SNSというのは議論に向いていない、というよりも文字情報が議論向きではない。やり取りの履歴がはっきりと記録されて、自己矛盾性が可視化されやすいし、何よりもテンポが悪く、アドリブ性が薄い。この「アドリブ性」というのが結構キモなキーワードになるような予感がしている。
 例えば仕事上での意思決定について考えてみた。私の場合では、何かの打ち合わせに臨むとき、まず結論ありきで資料を作って、説明も想定通りに持っていこうとしすぎてしまう。結論として着地点の見込みは当然必要であるが、ターゲットの範囲を絞りすぎると窮屈で、その場の意見変更は心理的に難しい。余白が少なすぎるから、柔軟な議論が出来なくなってしまう。
 会社の上司(50代)の仕事のやり取りを観察してみる。他者とやり取りして何か結論を決めるときというのは、やはり口頭でのやり取りが多い。よほど難しく慎重な議論でなければ、少しの立ち話でお互いに納得して先に進んでしまうことも多い。やり取りの内容はアドリブ性がかなりあり、発言内容のブレや撤回はよくある。自分の意見をある程度譲歩することで、相手と歩み寄り議論は進展していく。このようなやり方を見習う必要があると思う。ある一点にのめりこみすぎないことが要であるから、業務効率化の効果もありそうに思う。

 仕事に限らないが、口頭で話せる第三者の集団を日常に増やしていくことは大事そうだ。日常ではLine含めSNSの使用が多いから文字情報でのやり取りに終始しがちだが、実際はリアルタイムの会話でアドリブ力を培っておくと実践的なように思う。離婚の件で核家族について書いてから思い当たったが、平成以降の訂正力の低下は、人生に干渉する人の絶対数が減ったことが一因ではなかろうか。第三者の目線のもとに晒されることが減った昨今では、自分自身や第二者の訂正を促してくれるような存在が減ってしまっている。時代に逆行するというか、ある意味「逆張り」性を持って日常の環境を構築するのがよいのではないか。私個人の場合、少し極端であるがSNSはもはや必要がないのでやめてしまってよいように思う。より本質的には、本書でいう「親密な公共圏」の構築に時間とエネルギーをより消費できるようにしたい。SNSがなくても情報が得られるようなコミュニティがあれば理想だが…。何か間違えたとしても自分の過ちを認めて、次の段階へと進む心構えでいれば、そこまで深刻になることもないだろうな。


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