最後まで推せなかったわたしも、最後まで推せていたら【創作大賞感想】
わたしにも、かつて推しているバンドがあった。
CALETTeとは音楽のジャンルが違うので、推しという言い方はせず「本命盤」と呼んでいたけれど。
感想を書くためには、まずわたしと本命盤について語らせて頂かなくてはならない。
なるべく簡潔に、とは思っている。
そのバンド……ううん、わたしたちの言い方に直すと、その盤は、「ネオヴィジュアル系」なる言葉が流行っていた2000年代に登場した当初から、90年代の古き良き時代のヴィジュアル系バンドの空気をまとっていた。
頽廃的で、グロテスクで、色っぽくて、独自の世界観をもつ彼ら。
その音楽と物語のようなステージは、あっという間にわたしを魅了した。
ファンクラブに入り、何度もライブに足を運んだ。
地元札幌のペニーレーンやcube gardenはもちろんのこと、CLUB CITTA、仙台darwin、東京ドームシティホールなど、遠征もした。チケットの整理番号一桁も経験がある。
でも、わたしは最後まで推せなかった。
Vo.が療養に入り、いつも通りのライブができなくなった。
わたしの心は、そこで離れてしまった。
そして、今、彼らは無期限の活休に入っている。
これはわたしの「推しに関する勘」だけど、多分彼らは活動を再開しない。……できない。
解散よりも重い最悪の事態をどこかで予想している。
青豆ノノさんの『ソウアイの星』を読んだとき、わたしはルナに責められたような気になってしまった。
『あんなに好きって言ってたのに、供給が滞っただけで気持ちが離れるの?』
そう言われている気がして、本命盤に対する罪悪感が揺さぶられた。
この物語は流香の推し活の物語。ルナの愛情の物語。そして流香と朔也の永すぎた色々な「未満」の物語。
だけれど、わたしにとっては、ある意味カタルシスみたいなものだった。
流香には、大好きな推しと繋がれる、推しにとってたったひとりの特別な人になれる機会はいくらでもあった。
それなのに、「推し」と「ファン」でいたい。その距離感がちょうどいい。それがバンドのためになるから。
そんなまっすぐな気持ちで向き合い続けていた流香が、わたしにはまぶしかった。
推しに対するファンの気持ちは、信仰に例えられることもある。
でも、わたしには無償の愛だと思えてならない。
推しに対して惜しみない愛情を注げる者だけが、推しの行く末を見届け、添い遂げることができる。
わたしにはその資格がなかった。
ライブをやってほしい。新曲を出してほしい。早く復帰してほしい。変わらないパフォーマンスを見せてほしい。こんなに応援してるんだから。
そう見返りを求めてしまった。
流香は、どこまでも真っ直ぐに推しを信じている。
見返りなんて求めていない。
ただ、推しが、朔也が朔也のために、CALETTeのために歌うことを信じている。
それは、ふたりの関係が変化したとしても変わらない。
もし、流香のようにひたすらに推す……信じて、待つことができていたら。
もし、沈黙している推しを今も応援できていたら。
もし、もし。
今後かつての本命盤に、最悪の事態が起きたとしても、「わたしは推しに対してできることをやりきった」と思えるのではないか。
今のわたしには、もうその資格はない。
何かが起きたとしても、ちょっとの罪悪感を感じながら、思い出を胸にこれまでと変わらない人生を送っていく。
奇跡的に復帰したら、ライブには行くだろう。
でも、かつてのような熱を感じながら応援することはもうできない。
それは勝手に見返りを求め、勝手に離れたわたしへの罰みたいなものだ。
わたしの「変わらずに推せていたら」という人生を、流香が代わりに体現してくれた。
わたしは身勝手に自分を重ね、カタルシスを感じている。