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『うちに住まわれる』

 前回はエジプトを脱出したイスラエルの民がたどったルートについてお話しさせていただきました。
エジプトを出たイスラエルは葦の海(アカパ湾)でエジプト軍に追いつかれましたが、神はモーセを通して海を割る奇跡を行い民は無事、対岸へ逃れることができました。映画ではクライマックスのシーンですが、有名な話なのでここでは割愛してしまいます。
そこからシナイ山(アラビア)に向けて民はシュルの荒野を進むなか水源が無く、3日後にマラ(「苦い」との意)に着いて水源を見つけますが、その水が苦くて飲めないために民はモーセに向かって不平を言いだします。

■出エジプト15:25~26
モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」

ここもよく聞く箇所なのですが、不思議なのは神の語りかけの対象がモーセひとりだけということです。
試されたのは民ではなくモーセでした。民が不平を言った時にモーセは神に叫んでいますが、これは神を信頼しての叫びではなかった可能性があります。葦の海を渡るときも神はモーセにこう言われました。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。」(出エジプト14:15)神はモーセの心のうちにイスラエルの民の不平によって動揺する弱さをみたのではないでしょうか。このところで神はモーセを預言者として取り扱われたのではないかと私は思います。モーセに与えられたという「掟と法」は後に与えられた十戒とともにモーセの書簡に記されたと思いますが、それは厳しいもので「苦いもの」であったとも言えるかもしれませんし、民を率いるモーセにかせられている重荷は「苦いもの」であったかもしれません。

話がかなり変わりますが、ヨハネの黙示録には不思議な話が多いのですがこう書かれている部分があります。

■ヨハネ黙示録10:10
わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。

そして天の声はヨハネに「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」と語ったのです。伝承ではヨハネが黙示録を記したのはパトモス島という小さな島であったとされています。当時のローマ帝国はキリスト教徒に対して容赦のない迫害を行っている最中でした。
ヨハネがどういう経緯でパトモス島にいたのかはわかりませんが、彼が悩んでいた時に神は啓示を与えて預言者として用いたのではないかと私は考えます。

預言者として神に仕えようとしていたモーセもこれに近いものがあったのではないかと思います。
ここで「試みて」と訳されている「נס:הו(ニッサー・フ)」は強い言葉で「徹底的に試みた」というような言葉のようです。また、「(水は)甘くなった」というヘブライ語の「מָתַק(マータク)」には「神との関係を楽しむ」という意味があるそうです。預言者として歩むことは非常に厳しい立場に立たされるということでもありますが、神と正しく向き合って歩む時に神に従っていく道が喜びに変えられていくということ
を学ばせたのではないでようか。実際、モーセは以降、民が不平を言いだした時、預言者として諫めるようになります。

こうした後にシンの荒野に向かいました。エジプトを脱出してちょうど1か月経っていましたので深刻な食糧問題に直面しました。エジプトから持ってきた保存食料も尽きようとしていたのだと思います。民はまた、モーセとアロンに不平を言い出しました。

■出エジプト16:4~7
イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」

神が天から降らせたマナ(「これは何だろう」という意)はコエンドロ(コリアンダー?)の種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味となっていますが、コリアンダーの種は小さく丸いので正しい訳ではないかもしれません。神はこのマナとうずらをイスラエルの宿営に40年間、与え続け食料問題を解決しています。
神はこの時、民の不平に対して即座にモーセに対応しているように記されています。以降、注意深く神とモーセの会話を読んでいくと、水不足の問題(出エジプト17:1~7)、アマレク人との戦い(出エジプト17:8~16)を通して、モーセは完全に神の預言者、民との間に立つ仲介者として整えられていきます。
このモーセは神とともに歩む者にとっての写し絵です。

そして、イスラエルの民はエジプトを出発して3か月目(シバンの月)の初日にシナイの荒野に到着しました。シナイ山のふもとに民は宿営しました。神は民を聖別するため衣服を洗わせ清めるようモーセを通して語ります。

■出エジプト19:10~13
主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」

こうして3日目に民の見ている前で神はシナイ山に降りられました。
実はこのことが私たちクリスチャンのよく知るペンテコステとなる日であり、キリストの復活から50日目の日と同じタイミングで起こったできごとです。そのことにどのような意味があるのでしょうか。


【まとめ】


後にこの日は七週の祭の日として定められることになり、キリストの時代になって使途言行録に記されている聖霊が降るペンテコステのできごとが起こることになるのです。
このシナイ山での出来事はイスラエルの民にとって非常に恐ろしい体験となりました。

■出エジプト19:16~25
三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。

恐ろしいだけではなく、民を近づけさせず山に登らせなかったのです。山に登ることは死を意味していました。
境が設けられ、聖い者とそうでない者が明確に分けられたのです。
約1500年後にキリストの弟子たちに神である聖霊が降ったできごととは全く真逆のように感じないでしょうか。
しかし、出エジプトのできごとは新約聖書の時代に起こることの写し絵となっています。
出エジプトのなかで神が民にご自身をあらわした目的は次の言葉の中にあります。

■出エジプト19:3~6
モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語りイスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見たわたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

神が告げた「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」という言葉こそが聖霊が降ったできごとに共通する目的です。神の聖さが変わることがなく聖霊なる神も同じです。本来、罪ある者が近づくことは死を意味します。しかし、1500年後聖霊が降った時、キリストの十字架によって信仰を持つ者の罪は赦されて罪のないものとして扱われるようになったのです。
神はイスラエルの民に移動式の神殿ともいうべき幕屋をつくるよう命じます。これは世界に例がないのではないかと思います。それは神が民のうちに住まわれるためでした。聖霊が私たちに降ったのも私たちのうちに住み、私たちが仲介者、祭司の務めを果たすためです。

■ローマ8:1~2
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

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