No.14 『伝道者の慰め』
前回、パウロが第3回伝道旅行でエフェソに滞在した際に霊的な闘いが激しくなってきたことをお話ししました。その後、パウロはマケドニア州のフィリピ、テサロニケ、べレアへ向かったと思われます。
使途言行録には細かく書かれてはいませんが、パウロにとって非常に苦しい時期でもあったようです。
パウロは自分の生涯をランナーに例えていますので、このあたりはコースの終盤で最も苦しい状況だったのかもしれません。コリント人への手紙の中に少しパウロがこの時期の心境を告白している部分があります。
■2コリント7:5~6
マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。
しかし、この部分はパウロ自身の恐れや苦しみというよりはチームの問題だったのかもしれません。前回、霊的な闘いについて私の体験について話をさせていただきましたが、霊的な闘いでは自分の最も弱い部分を突かれます。時には自分ではなく自分に関係するまわりの人への攻めであることもあり、自分自身でどうすることもできない分、非常に大きな問題となることがあります。
■2コリント11:28~29
このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
パウロは当初、異常なまでの直線的な伝道活動を行っていましたが、聖霊に導かれて挫折を味わいながら多くの人を励ます伝道スタイルへ変えられていったことがわかります。それ故にぶつかった問題でしたが、マケドニアでテトスと再会することで慰めを得たと書かれています。
テトスはパウロがテモテと同じく弟子のように接していたなかのひとりで、彼は割礼を受けずに救われたギリシア人でパウロの異邦人伝道転換に大きく影響したと思われます。ギリシア地方でパウロと連携しながら福音の定着に努めていました。彼はパウロに会ってコリントでの出来事を報告したのです。
この部分ではキリストを伝える霊的闘いのなかで神がどのようにその人を慰められるかが示されているように思います。
【まとめ】
実はパウロはエフェソを出発した後、海路で直接マケドニアに行ったのではなくトロアスへ向かっています。恐らくトロアスでテトスと合流するためだったと思われますが、トロアスではテトスに会えませんでした。
■2コリント2:12~13
わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。
パウロはコリントの教会の状況を非常に心配していてテトスからの報告を待っていたようです。
今、インターネット上で会議ができる私たちには想像つきませんが、当時は手紙のやり取りも時間がかかっていたでしょうし、まず、郵便の制度が一般には普及していませんでした。ですから、手紙は人に託して届けてもらっていたのです。
当時のコリント教会では倫理的な問題をはじめ多くの問題があって、パウロはコリントの人々に対してかなり手厳しい内容の手紙を書き送ったようです。
■2コリント7:7~10
あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
パウロが先に送った手紙は残念ながら現存しませんのでどんな内容だったのかはわかりませんが、ひょっとすると新約聖書に含めることができないような激しい内容だったのではないかと想像してみたりします。パウロにもちょっと言いすぎちゃったかな感があったのかもしれません。
結果的にはコリントの人々は悔い改め、そのテトスの報告はパウロたちにとって大いに慰めになりました。また、パウロは逆にマケドニアの教会での神が成された恵みをテトスへ語って聞かせました。(2コリント8:1~2)
キリストを伝えていくなかで私たちは霊的な闘いを通して苦しい状況に陥ることがあります。けれども、そのなかに神の慰めもあるということを知るようになります。その慰めとなるのは人の救いに遣わされる体験です。
私たちが弱りかけた時に神は私たちの労苦が無駄ではないことを教えてくれます。
もしかしたら、誰も経験したことがないような苦難に直面するようなことが私たちにもあるかもしれません。その時にはこう考えてみるべきではないと思います。
あなたは同じように苦しむ人に遣わされるため、先に神に選ばれているということ。その人の救いに立ち会うときにあなたの苦労が無駄ではないばかりか失敗にも挫折にも意味があり、その時のために神が幅れずともに歩んできたことを知ることができると。
御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマ8:28