「ねぇねぇ、どうしてデザインを勉強するの?」

タイトルは、小学生向けデザイン教室のカリキュラムを考えている際に、子どもの声で僕の脳内に出現した。この「何で勉強するの?」という類の質問は、子どもが大人を困らせる質問ベスト5に入るのではないかと思う。ちなみに、「サンタさんっていないんでしょ?」も、ベスト5に入ると思う。後者は、子どもの夢を奪いたくない欲求と自分に嘘をつきたくない欲求のせめぎ合いから来る困惑であるのに対し、前者の問いに対して大人が困る理由は、大人もその理由に対する納得解を持っていないからなのではないかと思う。当の私もこの質問がきたら確実にどもってしまう自信がある。だから今のうちにこの文章を書くことを通して納得解を見つけられたらと思う。

「学ぶ」「教える」への違和感

最初に、教育の機会に何かを学ぶという行為について、自分の体験も踏まえて向き合ってみたい。実をいうと私は教育大学出身で初等教育と中等教育数学の教員免許を取得しているのだが、9割の同級生は卒業後、教員採用試験を受け教員になろうとしている中、私は教員になろうと思えなかった。というよりは、自分が教師になるイメージが全く湧かなかったのだ。今考えるとそれは、生徒ー教師間で行われるであろう「学ぶ」「教える」という行為への違和感があったからではないかと思う。

「学ぶ」についての違和感は割とシンプルで、私自身、勉強というものがあまり好きではなかったからだと思う。特に暗記をするということがとても嫌いで、語呂で覚えるような社会の勉強には向き合えず、社会の授業は頭を机の上にそっと乗せて教科書の鼓動に耳をすませた。では、なぜ学校の先生になろうと思ったんだよというツッコミが聞こえてきそうだが、それは将来のことについて全く考えていなかったからだと思う。子どもたちと遊べたらいいな〜という理由だけで、身近にある職業として教師を選んだのである。社会のことも自分のことも学ぶことをしてこなかった私の将来の夢は割と長い間「プロ野球選手」だった。私にとっての「将来」は、「プロ野球選手」よりも遠くに存在していた。もちろん野球はそんなに上手くない。

「教える」についての違和感は、教えるというイメージが醸し出す、大人が決めた“何か”を子どもたちに与えるというニュアンスが好きではなかったし、この前まで高校生だった自分が子どもたちに何かを与えられる気もしなかった。教育実習では、担当の先生に「子どもたちが将来どんな人になってほしいか想像しながら接してほしい」と言われた時に、子どもたちの将来については全くイメージできなかった。

なんにせよ、上記のような違和感を持った僕は、大学を卒業後、バックパックを背負って旅に出た。(笑)

一緒につくって楽しむ教師像

大学を卒業して8年経つが、今ではその違和感はなくなっている。学ぶことは何よりも好きになったし、教師の役割が“教える”ことではないという考え方になったからである。

学ぶことが好きなったのは、カナダでのデザイン専門学校で学んだのがきっかけだったと思っている。やて、みて、わかる、というものづくりのプロセスが僕の学びへの価値観を大きく変えた。今でこそアクティブラーニングのような探求型の学びが提案されているが、まさに僕が体験した学びもそれに近い原理が働いていたと思う。グラフィックでも、ウェブでもつくってみることがはじめにあって、そこで出てきた問題点を見つけたり感じ取ったりしながら学ぶことに喜びを感じていた。

また、教師の仕事が教えるという役割ではないということを確信したのは、主に井庭崇と市川力が推進しているGeneratorsという運動を知ったからである。
Consumption(消費)からComunication(情報)、そしてCreation(創造)へという時代の流れを3つのCで表し、これからはCreation(創造)が豊かさの象徴になる時代が来ることを井庭は予測した。そして、その時代ごとに教師の役割がTeacherからFacilitator、そしてGeneratorへと変化していると述べている。大量生産大量消費の消費社会では、生産を確実にするための画一的な学習が必要であった。私の「教える」のイメージはここから生まれてきたのだろう。そして情報社会になると、「教わることの学び」から「コミュニケーションによる学び」に変化した。質的量的データを分析することに重心が置かれた社会では、話し合いや議論からの学びが必要であり、教師はそのコミュニケーションを促すファシリテーターとしての役割が必要になったからである。そして、いますでに始まっている創造社会では、教師も一緒につくることが求められる。子どもの小さな好奇心を一緒に何かつくることで育むジェネレーターとしての教師が求められているのである。

創造社会の教師像、一緒につくって、一緒に学ぶジェネレーターというイメージに僕は胸が踊らされた。専門学校に通っていた1年間がとても楽しかったので、いつかこの体験ができるような場所をつくりたいなとぼんやり考えており、知り合いにデザインの授業を一緒につくって欲しいと頼まれた時は嬉しかった。

良い教育とは?

さて、今までの話をまとめると、「ねぇねぇ、なんでデザインを学ぶの?」についての答えは「つくる時代がくるからだよ」もしくは「つくって学ぶことが楽しいからだよ!」ということになる。どちらも正しいようでピンと来ない。
「つくる時代がくるからだよ」という回答については、「その時代が本当に来るのか?」「創造社会とはどのようなものなのか?」「その時代が終わった後は必要なくなるのか?」という疑問が湧いてくる。特に最後の問いはもっと根源的な学びの意味について考えるよう促してくれる。
また、学ぶことは楽しいからという回答についてはどうだろう。良い気もする。子どもたちにとって楽しいことはとても大事だ。しかし、では「Youtube見ていた方が楽しいよ」って言われたらどうする?(もちろんYoutubeは例えであり、それも受動的エンターテイメントとしての側面を取り上げているに過ぎない。)きっと楽しいだけでは表現できていない学ぶ意義がありそうな気がする。
20年後の子どもたちの生活を考える、その時にどんな社会でどのような暮らしを営んでいてほしいのか。そのように、良い社会・良い教育とは何だろうと思考を巡らすことになった。

「良い教育とは?」こんな途方もない問いに立ち向かっている本に出会うことができた。苫野一徳の「学問としての教育学」という本である。
哲学者でもある苫野は、この問いに対して現象学=欲望ー関心相関的アプローチでこの問いに答えた。結論から言うと、公教育の本質は「<自由>及び社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」である。どういうことか。

そもそも苫野の本書を通した目的は教育学のメタ理論体系の構築にある。なぜならば、今の教育学が相対主義の問題により、細分化されているからである。1980年代頃からのポストモダン思想とその影響により、近代教育が掲げてきたあらゆる教育的価値を相対化したがために、誰も教育の大きな理想や理念、目的を語ることができなくなってしまった。経済学や社会学なども含め様々な教育に関する研究がされているものの、それらの研究が資する教育方針(理想・理念・目的)が定まっていないために、それぞれの研究が教育現場で正当な価値を発揮していないことを問題視している。そこで、教育とは何か、それがどうあれば「よい」と言いうるのかという哲学的探求を教育の底に引き、そのような教育はいかに可能かを実証的、実践的に探究する教育学の再構成を苫野は試みている。

では、苫野は相対主義をどう乗り越えたのか。現象学というアプローチで乗り越えた。相対主義とは、何らかの客観を措定し、そんなものは存在しないという形で相対化するのに対し、現象学は、そんな客観は知りようがないから括弧に入れて、わたしの「確信・信憑」をベースで考えてこうという考え方である。

たとえば、目の前にマグカップが見えている。しかしこのマグカップがそこに本当に存在しているかどうかは誰もわからない。もしかしたら、マトリックス的なことが起きているかもしれない。しかし、そのマグカップが見えてしまっていることを疑うことはできない。そして、見えてしまっているがゆえに、私はマグカップの存在を「確信」しているのである。
このように絶対的実在性(マグカップが本当にそこに存在しているのかどうか)を疑うことはできたとしても、それが何らかの仕方でわたしに確信されているという意識作用については疑うことができないので、これを議論のベースにしようという考え方である。

では、何をもって「よい教育」と確信しうるのだろうか。苫野はこの問いに対して、<自由>への欲望が実質化されることである。と答える。そして<自由>への欲望が実質化されるためには、この社会が<自由の相互承認>の原理によって構想され、公教育がその原理を最も根底で支える土台になる必要があると論じる。

<自由>への欲望の実質化。これが教育に限らず「よい社会」の本質でもある。その根拠は、人間的欲望の本質は<自由>であることをヘーゲルが論証しているからである。人間は複数の複雑な欲望を自覚している欲望存在だとヘーゲルは言う。だからこそ、わたしたちはこの欲望それ自体によって規定され、何らかの不自由を自覚しているのだと。したがって、私たちは欲望存在であるがゆえに<自由>を欲するのだと。

では、自由とはなんぞや。自由についてハンナアーレントの秀逸な言葉を拝借している。<自由>は、「我欲する」と「我なしうる」との一致の感度が訪れる時、あるいはその可能性の感度が訪れる時に確信するものである。
ここで重要なのは、<自由>の本質は状態ではなく、感度であるということであろう。

つづく…(つづくのかよ)

今まで、「ねぇねぇ、どうしてデザインを学ぶの?」という純粋無垢な佇まいで、少し困ったような顔をしながら子供が聞いてくるだろう問いに対して、自分なりの納得解を探すために今までの経験も踏まえつつ、子どもが学ぶ意義について考えてきた。そして、「よい教育」とは何か?という問いに対して、公教育の本質は、<自由>及び社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化させることであることを見てきた。
苫野の議論は教育界に素晴らしい指針を与えたのだと感じると共に、各人の<自由>及び社会における<自由の相互承認>を実質化するための<教養=力能>は何か?それはどうすれば育めるのかという問いを深めていかなければならない。

今回は力尽きてしまったが、次の段階として、デザイン教育が寄与しうる<自由><自由の相互承認>を実質化する<教養=力能>について、デザインの性質という面から考えていこうと思う。

ここで2点だけ議論を広げるような問いを立てて筆を置きたい。
1つ目は、現代社会においてこの<自由>の妨げになっているものは何か。特に近代において物的資源が圧倒的に裕福になり、物理的制約からかなり自由になったであろうわたしたちが、縛られているものは何なのだろうか。私たちを束縛している様々な問題を様々な視点から考えてみることで、自由のカタチが見えてくるのではないか。

2つ目は、公教育における学校の役割についてである。苫野さんの議論はとても有意義であり共感する一方で、現状の教育現場とのギャップに絶望せざる終えない。この原因の一つに、教育=学校というような認識があるからではないかと感じるのである。学校という公立性の性質上社会の認識が変わらないと変えられない部分が大きいのではないか。その社会の認識を変えるためにも、学校の外での教育の場を増やすということが、学校教育を変えていく上でも相乗効果になるのではないかと考える。そうした時の、学校の在り方はどうなるのか、子どもたちがどのように大人を変えうるのかということも考えてみたい。

まだまだタイトルの問いには答えられそうもないのだけど、この問いから出発した思考が、さまざまな方向に寄り道する中で自由を感じている時がある。この感覚を大切にしながら、価値ある問題提起を試みてみたい。


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