両極端な気持ちが同時に存在する人生は疲労困憊だがそれも持ち味だと思うようにした。
2017年に放送された「カルテット」というドラマを最近見始めた。第4話にこんなセリフがあった。
とある登場人物が恋の告白をして振られてもなお片思いしている相手に再度伝えた言葉である。
恋ではないが、こどもの頃私は、親にも、助けてくれた人にも、里親や施設職員、児相の人にもすべてこの気持ちを抱えていたように思う。
優しくされたあと殴られる。
約束しても破られる。
こどもがいてくれてよかった、孤独じゃない、といったそのあと、生まなければよかったと言われる。
自分をもっとも守ってくれるはずの人から、不幸の原因だと殺されかける。
あなたの家だよと言ったその口で仕事だからという。もう無理だ、児相に返すと言う。
いつでも味方だと言いながら勤務時間外はつながらない。
親だけど親じゃなくて
家族だけど家族じゃなくて
家だけど家じゃなくて
仕事だけど仕事じゃなくて
親に会いたいのに会いたくない。
許したいのに許せない。
生きていたいのに生きていたくない。
頑張りたいのに頑張れない。
嬉しいと同時に虚しい。
希望と同時に失望している。
信じたいと同時に疑っている。
好きだけど好きになってはいけない。
期待したいけど期待してはいけない。
こども家庭福祉にかかわる職員として勤務していても
この子(担当児)を引き取りたいけどそんな力量もないのに簡単に約束もできない
愛おしく、かなしく、
なのに勤務が終わったあと体力がなく何時間もいられない
「勤務時間外」の対応もしたいのにキャパがない。
こどもの人生を思うと退職したくないけど、自分とパートナーの人生を思うと退職せざるをえない。
いつか辞めるならば、期待はさせないほうがいい。
できない約束はしないほうがいいーーそれがこどもからしたら一線をひかれていると感じるかもしれない。
あの頃、福祉で助けてくれた大人に抱えていた気持ちを大人の立場で体験した。
「私の人生は、仕事なのか?勤務なのか?」
あの頃の自分が責め立ててくる。
両極端の気持ちのみならず、こどもの頃と働く大人としての気持ちも常に同時に沸き起こり、引き裂かれる。
大人の限界がこどもという弱者にしわ寄せされてしまうとは、大人の都合に振り回されるこどもとはこういうことかと思った。
私はそれに加担してしまった。
こんな責任に身を焦がすような葛藤を、現場にいる養育者は抱えるのだ。
愛ほど信用ならないものはなく、仕事のほうが対価や監視があるぶんまだ信用できるということはこどもが知るべきことなのだろうか。
社会的養護のこどもはそれを「弁える」ほうが楽になれるのだろうか。
フロイトをはじめとする精神分析の考え方によると、人は葛藤が生じると「防衛機制」という心理メカニズムで対応するという。
こうしてnoteを書いていることも心を守るために行っている防衛のひとつだと考える。
こどもの頃は「未熟な防衛機制」と分類されるもので葛藤を処理していたために、ずいぶんとトラブルも多かった。葛藤していることすら気づいていなかった。
パートナーはそれもまた珍しいことだと思うが、あまり両極端のなかに身を置いたことがないそうで言動に一貫性がある。
なのでわりとシンプルな情緒でわかりやすい。
私に関わってくれたこども家庭福祉の人々、とくに生活の中に入れもっとも自分を助けてくれた人も、はっきりと潔くてあとからくるっと手のひらを返したりしない。
虐待の複雑さや、社会的養護のあいまいさや葛藤に気づいているのかいないのか、「何をうじうじしているんだ、言わないとわからんよ、悩まず前見て進むしかないよ」という人だった。
(それもまた、彼らなりの防衛であったように今なら思う。)
一向に理解してはもらえないが、とはいえヘルシーでさわやかな生活だったように思う。今思えばヘルシーな人の側で暮らせたことそのものは「うじうじ」な私にとって新鮮だった。こうでないととても人生はやっていけないと思った。
当時はこんなぐちゃぐちゃな気持ちは言葉にできず、言葉にしたところで「わけわからん!無意味!」と一蹴されるのもわかっていたので、何年も無言を貫いていたが…。
先人の知恵のおかげで、今ならこうして表現できる。
今は「両極端の2つの気持ちがある」ままでいいと思えるようになった。
2つの間を無限に選べることも知った。
2つの気持ちを同時に味わえるのは視野の広さにもつながるかもしれないと思うようにもなった。
決断をしなければならないが迷うときは大体どちらにも転べるようにして、
あとは流れを見守っていればすっと決断ができる状況が訪れる。と思う。
一方でどこか味気なく…
と、こうして延々と両極端のことを書き続けるのでここで終わりとする。
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