いろとりどりの真歌論(まかろん) #15 俵万智

「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日

○●○●○ ●○●○●○● ○●○●○ ●○●○●○● ●○●○●○●

 実際は「この味がいいね」と言ったわけでもなく、7月6日でもなく、サラダでもなかったらしい、現代日本で一番有名なこの短歌。彼氏に唐揚げを作ってあげて褒められたエピソードが根底にあるらしいが、最終的には「ある人に料理の味を褒められたことが、とてつもなくうれしかった」という抽象的な部分しか共通点は残っていない。(「君」の性別も年齢も、作中主体との関係性も不明)

 そんなふうに、事実とは発生期日も発言も違い、サラダではなく唐揚げだったこの歌が、なぜ多くの人の心を掴むにいたったか。その理由として、短歌の形式の寄与があると思う。

 好きな人になにかを褒められたときのうれしさは多分、暑い日(1980年代の夏は、今よりよっぽど涼しかっただろうが)の油たっぷりの肉の揚げ物から受ける印象からは程遠い。しかし、「サラダ」という一語は「爽やかさ」「若さ」「みずみずしさ」「加工度の低さ」という「唐揚げ」とはまったく異なる属性を持ち、「うれしさ」という感覚がほのめかす明るさにより近い。そして、よくよく文をリテラリーに読めば、恋愛関係なのか友人関係なのか親子関係なのか手作りなのかお惣菜なのか不明なはずの日本語の羅列の中に「若く恋愛関係にある人たちの同棲中の一コマ」のような色味をあたえている。あくまでもほのめかしであり、言及ではないが。

 事実に基づいており、字余りという欠点くらいしかない以上「唐揚げ」であったとしても短歌の出来栄えには大差がないようにも思える。が、字余りを避けようと言葉の「意味」以外の観点から言葉を選んだが故に、「サラダ」という言葉が選ばれ、結果として「意味」の伝達にもよい結果をもたらす。枠組みはそういった推敲を促すシステムとして働いている。

 そして短歌の三十一の音ぶんの枠とその区分けパターンしか与えられていないという性質は、重要度の低いことを言語化しない言い訳となる。作者が我を押し通せる余地が減ることで、さまざまな立場にあるであろう読み手が、たとえば「忙しいお父さんがお惣菜のサラダを買ってきて子供に頑張って野菜を食べさせてきた。この日はじめて野菜がおいしいと言ってもらえた」という解釈を可能にしてくれる。さまざまな立場の人が「好きな人になにかを褒められたときのうれしさ」を感じ取れるのだ。「「この味がいいね」と彼氏が言ったから」では切り捨てられてしまう人たちのことも、この歌は見捨てないる。

●○●○● ○●○●○●○ ●○●○● ○●○●○●○ ○●○●○●○

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?