いろとりどりの真歌論(まかろん) #14 宇都宮敦

だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし

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 前提の共有されていない議論には、あまり意味がない。というより、議論とは前提の飲み込ませ合いと言えるのかもしれない。どちらの前提が受け入れられたかで、議論全体の、立場の勝敗が決まっていく。たとえ間違った前提であっても、議論をする人たち全体が共有してしまえば、議論すること自体は可能だ。とはいえ、議論の勝敗と事実は同じであるとも限らない。

 「これは逃げるほどの火事か」を議論しようとしたとき、「そもそもこれは火事ではない」という前提がうっかり受け入れられてしまうと逃げ遅れてしまう。「火事であるかどうかの議論の勝敗」と「事実として火事に巻き込まれているか」は異なるということを忘れてはいけない。ほんとうは議論する前に、それは議論で決定づけていいことなのか確かめないといけない。論理とは残酷なものだ。平気で事実とはことなる結果が出力されてくる。

 「急ぐ旅」は「急ぐこと」と「旅であること」の両方の要素によって成立していて、そのどちらもが成立しないなら、少なくとも「急ぐ旅であること」による問題は雲散霧消してしまう。だからこそ、「だいじょうぶ」なのだ。この「だいじょうぶ」には根拠があるし、「急ぐ旅」という問題が、言葉と韻律と論理のうえで崩れ去っていくのを感じているうちに、愉快な気分になってほんとうに大丈夫な気分にさせてくれる。

 なぜ状況を論理的に捉える必要があるか、というと、自分が直面している問題を解決するためだ。ものごとをどうやって実現させていくか、このトラブルはどうやって対処すればいいか。けれど、問題が問題である理由には前提条件の間違いがあったりする。急ぐ旅だと思い込む前に、急いでないか、そもそも旅なのか、そうやってきちんと確認していく。確認していくうちに「だいじょうぶ」だということがわかってくる。

 だいじょうぶ。火事かどうかとは違って、旅かどうかの判断を間違ったって大したトラブルにはならないし。

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