『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観てきたよ(53日目)

結局『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観てきましたぜ。
正直ネットに渦巻く怒号と一部の興味深げな観点が気になって、がっかりイリュージョン(©️ピューと吹く!ジャガー)のつもりで観に行ってみたら、思ってたより色んな意味で語りがいのある作品で、ずいぶん楽しんでしまった。

以下、ネタバレ全開で感想を書きます。

ユアストーリー、というタイトルの時点で確実に、この映画をドラクエ5としてプレイしているプレイヤーが出てくることは予想していた。
だけど、そのプレイ体験をかけがえのないものとして認めるメッセージのために、アンチとして「(ゲームなんてやってないで)大人になれよ」というオッサンくさい説教をかましてくる、"天才プログラマーの作ったコンピューターウイルス"なんつう古典的なボスを出してくるとはなー。
こういう原作ものでそういうメタ的な横破りをかましてくるのは正直わりと驚いた。
けれどよくよく考えると、そんな大ネタを使って言わんとしてることは「今さらそれ言う?」って思うようなこと。
ゲームをやるなんて子供っぽいという問題提起と、ゲームはかけがえのない体験であるという回答、そのやり取りの驚くべき古さ!
VRなんてアイデアで同時代性が担保されてると思ったら大間違いだぜ!

つまるところ、今作はドラクエ5の映画化ではなくて、ドラクエ5をプレイすることについての映画なので、そりゃドラクエ5の映画化を見にきた人は怒るよな。
しかもその新たなメッセージがじつに前時代的なゲーマーへのメッセージとなれば、神経逆撫でされる人が多いのもわかる。

でもその古臭いゲーム擁護が、いまやオンラインの続編も出ている超有名シリーズの20数年前の作品の、商業映画の権化とでも言うべき面々の手による映画化で展開される、ということの意味合いを考えるとかなーり面白い作品だと思う。

シリーズ他作品のBGMの使い方や、ファミコン版っぽいフォントの使用、なぜか出てくるロトの剣といった、ドラクエ他シリーズとの雑な混交は、たしかに製作側の愛の欠如(もしくは大ざっぱな愛の存在)に基づく間違ったサービス精神のあらわれであるとは思う。

そこにはロトシリーズと天空シリーズの区別などはなくて、呪文やアイテムやモンスター、すぎやまこういちの音楽によって構成される「ドラクエらしい」世界、という雑な印象に基づく認識をもって、この『ユアストーリー』にドラクエ全体を代表させてしまおうという意図を感じる。

その意図はいったい何に向けてのものなんだろう、と思う。
山崎貴総監督、という人がドラクエを映画にするにあたって発生するものはなんだろう。
山崎作品をほとんど見てない自分が言うのもなんだが、この人は単なるヒット作とはまた次元の違う「国民的」作品を撮るよう要請される人という印象がある。
次回作はルパン三世だし、オリンピック開会式閉会式のプランニングチームに抜擢されてもいるわけで。
そういう人がドラクエ映画を、雑な混交によって作るということ。
それはもはやドラクエが国民的世界観としてザックリと拡散しつつあることの証明だったりはしないだろうか。
ドラクエはもはや「各々補完できるイメージがみんなの中にあるから総体としてはザックリした扱いができる」国民的ジャンルである、(と製作陣が仕立てたがっている)ということではないだろうか。
「ドラクエ」という単語はもしかしたら、「西部劇」「サイバーパンク」などのようにひとつの世界観そのものを表すようになっているのかもしれない。
(この「ドラクエっぽい」世界観の流布は、昨今の異世界転生もののテンプレートにもそれなりの影響を与えているかもしれないが、それこそ雑語りになるのでこれ以上は触れません。)

国民的、という観点は、今作での原作あらすじのわりと大胆なはしょり方にも表れている。
ドラクエ5を一切知らない人が見たら前後編の後編から見てしまったような気分になると思う。何せ開始10分くらいでパパスがお亡くなりになる。
一部のファン向けならまだしも、ビッグバジェットの大作でこれをやるのはなかなか大胆じゃないか。
でもそれは「この国民的シリーズの中でも代表的な作品だからみんななんとなくわかるよね?」という合意を暗に下敷きとしているような気がする。
国民みんなファンだと思っている感じ。

なんというか、製作陣はドラクエを、ドラえもんとかサザエさんとかと同じ、世界観が一定かつ大部分がライトなファンである国民的コンテンツだと考えてるような印象を受ける。
それなのによりによって原作に5を選んじゃったかー、というね。せめてロトシリーズでキャラのアバター的側面が強い3にしときゃよかったのに。

ここで言う国民的コンテンツの条件は、「みんな知ってる」という一面ばかりが極大化している。
知ってる人がそれぞれの物語を経験した思い出を強く持っている、という点が抜け落ちている。
大半の客はドラクエ5を、国民的作品としてではなく、とても個人的な作品として捉えていた。
みんなが個人的なライフストーリーとして捉えやすかった5を『ユア・ストーリー』を描くための原作に選ぶというのは、広さと深さを両取りするのにはベストな選択ではあった。
でもメッセージを新たにつけ加えることや、ドラクエの大雑把な世界観を代表させるのには最悪の選択でもあった。
国民的映画づくりではなく、ファン向けの映画化という意味ではたしかに大いなる失敗を犯しているのかもしれない。

でもこの映画が対象としているのは、本当にファンなのだろうか?
この映画を見るべきなのは本当に原作ファンたちなのだろうか?

たぶん違う。
この映画の、「ゲームで送った人生は実人生にとってもかけがえのない経験」であるというメッセージは、そのことをとっくに自分の経験で自覚しているファンに向けられるべきものではない。

この映画は、たぶんそんなこと意図していないけど、「ゲームやってるやつはガキ」みたいな価値観をいまだに強固に持っている化石おじさんたちに、まだ良心が多少ある偉いおじさんが「ゲームはプレイした人にとってはひとつの実体験なんですよ」というごく当たり前のことをレクチャーする教則ドラマに結果的になっている。

そして実際、世間の認識は未だにその程度なのだろう。
ワイドショーのオタクの扱いなんか見てると何十年経ってもそこから大して動こうとしていない。
通勤電車の中では夥しい数の大人がスマホでゲームをやり、オンラインではそれこそドラクエ10でアバターをまとった実在の人間たちが一緒に旅をしているにもかかわらず。

ゲームが本質的に大きく変容してきたことに全く気づいていない人たちが、その認識が止まった当時の流行作を、国民的作品として作り変えた。
偉くて古いおじさんたちの「良心」が大規模商業作品として結実した結果、こんな奇妙な作品が爆誕したのではないだろうか。

いやー、面白かったです。
いびつで。

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