怒りへの寄り添いかた/『プロメア』ネタバレ感想(19日目)

今石洋之監督・中島かずき脚本『プロメア』を観てきてハァァーーーンンンってなったので感想を書いたら思いのほか真面目な話になっちゃいました。

以下、おかまいなしにめちゃめちゃネタバレしますので、未見の方はお気をつけください。


オープニングでバーニッシュになった人たちを見るに、そうなる引き金は「怒り」、それも虐げられた怒りから単なるイライラまで、軽いものも重いものも含むのが面白いなと思った。
怒りは多かれ少なかれ誰でも持っている、いちばんもてあましがちな感情だ。
みんなが怒りをぶつけ合い、お互いに膨れあがらせて爆発する様は、スマホを起動すればいとも簡単に見られる。
誰でもバーニッシュになりうる。もうすでになっているのかもしれない。
この作品は、人間が物理的に「炎上」しまくり、それを主人公たちが鎮火する物語だが、現代を「怒り」の時代と捉えて、それを鎮めるべしと語る寓話なのかな、と最初は想像した。

観終わると、それは半分当たりで半分外れな気もする。
怒りを鎮火する話ではあるのだが、そのやり方がもう一歩深いところにあったように思う。

炎と怒り、というモチーフは作中ずっと通底しているが、興味深いのは作中で明確に「怒りを爆発させる」のはバーニッシュのキャラだけだったことだ。
クレイへの怒りで暴走するリオ、押し込めた怒りを最終的に露わにするクレイ。
それに対して、ガロは熱血野郎なのに、頭に血がのぼっても「冷やそう」とする。
自分の信頼を手酷く踏みにじったクレイに対しても、怒りをそのままぶつけはしない。
クレイに対するリオの怒りに共振したりもせず、まず彼の怒りを鎮めた上で共闘し、最後はクレイの怒りも鎮めようとする。

その意味でガロはじつに一貫して「火消し」なわけだが、彼のキャラクター造形の巧みなところはそれだけじゃない。
火消しなのにまったくクールじゃない、理屈や計算なしに衝動で突っ走る熱血バカなのが肝要だと思う。
それはもちろんもうひとりの主人公であるバーニッシュの親玉・リオがその能力と相反してクールなキャラであることとのコントラストを強調するためでもあるだろうが、その造形はそのままこの作品の価値観を照らし出してもいる。

バーニングレスキューの面々は氷で火を消し止めるが、この作品は最終的に、火をもって最大の火を消すことになる。
言い換えれば、凍らせてその火を「なかったこと」にするのではなく、燃やし尽くして「認める」ことによって怒りを根治する、という解決方法を取る。
その炎の原動力となるのが虐げられてきた者たちの代表であるリオで、それを妨げるクレイの怒りも汲み取ってすべてを導くのが「バカ」であるガロだ。
すべてが終わったあとに、リオがガロに笑いかけながら「バカだな」というのは、その「バカ」であるガロだからこそバーニッシュたちを救うことができたのだということの表れだろう。

このキャラ造形が示すものは、怒りという火を消せるのは論理や知性ではなく感情によってなのだ、ということじゃないだろうか。
現実で怒っている人に「論理的に考えてもこうだから怒るな」と言ってその相手の怒りが収まったためしがあるだろうか。個人的にはほぼまったくない。
それで怒りが収まらないのは、すなわち「あなたの怒りは間違っているからなくせ」と命令しているようなものだからだ。
論理や知性で怒りを「正しいもの」とどこまで認めることができるだろう?
怒りはそもそも論理的、合理的な「納得」の外にあるからこそ怒りなのではないか?

『プロメア』は、そういう怒りに寄り添って解き放つという、(こう言うと安っぽくなるが)アンガーマネジメントについての作品なのかもしれない。
ただなによりも素晴らしいのは、そういったテーマにつきまといがちな説教臭さを、徹底したエンターテインメント精神とケレン味と動きの快楽によって、一切消し飛ばした上で提示してみせるところだ。
同じコンビによる『グレンラガン』『キルラキル』の延長線上にありつつも、2時間一本勝負という新たな制約に対して期待以上の精度と速度でストレートを投げ込んできた傑作だと思う。

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