三島由紀夫スポーツ論集を読んで(22日目)

だらだら読んでた佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』(岩波文庫)をようやく読み終えた。

や、めちゃくちゃ面白かったです……。
『金閣寺』くらいしか読んでおらず、正直価値観はあんまり合わなさそうだなと敬遠していた作家だったのだけど、ごめんなさい、文章上手すぎておののきました……。

東京オリンピックやボクシングの観戦記も、自分はそこに出てくるアスリートのほぼ全員を知らないし、他にも飛び込みやら重量挙げやら、まともに見たことがないものばかりが登場する。
なのにその文章を読んでいると、実際に見ていても決して自分が発見できなかっただろう、そのスポーツの、そのアスリートの、火花が散るような瞬間に輝く「コア」が見えるような気がするんですよ。
みんなも読んで筆を折るといいと思う。
天才というのは確かに存在する。

この本を読んで知ったのだけど、三島由紀夫は元々胃弱でヒョロヒョロ、あばら骨が浮き出るさまを「洗濯板」と評されるようなひ弱ぶりで、それが深いコンプレックスとなっていたものの、30歳にしてボディビルを始め、みるみるうちに虚弱を克服したことが大きな価値観の転換点だったそうだ。
実際、この本にも体を鍛えることについて語った文章はいくつか収録されていて、最たるものが最後に収録されている「太陽と鉄」。

すさまじく密度の濃い評論なので実際に読んでいただく他ないが、強いて要約するなら言葉と筋肉、精神と肉体、芸術と武術、個と集団、生と死の相克の中で、かつての己が否応なく属していた前者を憎み、後者への接近の果てに行き着く英雄的・悲劇的な死への強い憧れをこの上なくみっちり語っている。

見方によっては虚弱ゆえに戦地に行けなかったコンプレックスの反動で戦争に美を求めるような側面も強く、正直書いてある内容に共感はしないが、これを書いてしまった彼のコンプレックスには共感する。
彼にとって筋肉とは麻薬のようなものだったのかもしれない。

青年期を過ぎてはじめて納得できる肉体を得て、そのくせ運動の果てに月並みな健康ではなくむしろ死を求めた三島が、最終的にああいう最期を迎えたのは一貫した行動に思える一方で、自分の言葉、精神の方に殉じて肉体を殺したようでもあり、結局のところこの人の悲劇は言葉、精神、芸術から逃げられなかったところにあるのかもしれず、それは本人が求めた悲劇性ではないんだろうなと思うと、少し切ない気分になる。

自分も強い肉体コンプレックスがあるので、きっと三島のように自分の許せる肉体を手に入れたら、あっさりと価値観がひっくり返るのは間違いない。

言葉が、それによる芸術が、語り得ないものを語ろうとして必然的に偽物となってしまい、肉体運動が極致に至ったときにたどり着くものには決して届かないこともなんとなくわかっている。

でも、最終的には、三島のようにはなりたくない。

言葉と筋肉、精神と肉体については彼のいう「文武両道」を目指すことにあまり異議はないし、個人と集団の相克にはそれこそ会社員という立場で生きる以上常に晒されていて、片方に振り切れずにいる。
でも、生か死か、という問いに対しては、常に、必ず、生の方を支持したいと思う。

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