ボルタンスキーの非肉体的死体(27日目)

昨日はクリスチャン・ボルタンスキー展『Lifetime』を国立新美術館で観てきた。
彼の展示を見るのは、16年に庭園美術館で開かれた『アニミタス-さざめく亡霊たち』以来2回目。
素晴らしかったです。

今回の展示で彼のキャリアを初めてざっと通して観たけど、一貫して彼は「死体」を扱っているんだと理解した。
人が死ぬと残されるものは2種類ある。
ひとつは肉体としての死体。
もうひとつはこれまでの人生で写真や所有物、はてはその人にまつわる記録や記憶として残された痕跡。
ボルタンスキーが扱うのは後者の、非肉体的な死体の方だ。
(もっとも、初期の「咳をする男」とかの映像作品は前者に近いものだったが)

新聞の死亡記事に掲載された顔写真の集積。
死の瞬間がどんなものだったか質問してくる着古されたコート。
監視カメラの記録に残された自身の映像。
壁に投影された髑髏のオブジェの影。
布に刷られた女のデスマスクめいた表情。
誰もいない雪原で鳴り続ける無数の鈴。
ボルタンスキーの作品は、ほとんどがすでに訪れた、もしくはいずれ必ず来る夥しい死を指し示している。
でもそれは必ず間接的、二次的な、転写された死だ。

死を直接的、一次的に捉えるのにもっとも適したオブジェクトは死んだ肉体なのだろうけど、ボルタンスキーはそれを写そうとはしない。
必ず暗示する。

この死との距離、ある種の遠さこそが芸術の拠り所なのではないかと思う。

遠さとは、不完全さとも言い換えられるだろうか。
死を二次的に捉えるということは、眼前にある物体としての死を見つめるのではなく、その死が紐づけられてきた生をたぐり寄せることでもあるが、人ひとりの生を「完全に」把握することはその本人にでさえ不可能なことだ。
自分の人生のすべての瞬間を記憶している人間はおそらく存在しない。
すべての瞬間の記録もまた存在し得ない。
人の生を二次的に把握することは、あらかじめ不完全であることを運命づけられている。
(そもそも完全な生なんて、ほんとうに存在するのか?)

でも、人の生と死に対して想像力を喚起し膨らませるのは、いかなる不完全さを選びとって抽出するかによる。
そのやり方こそが芸術の個性と強度を決めるのだろうが、ボルタンスキーは、死を通して浮かび上がる不完全な生と、人の生の痕跡が失われることによる完全な(そして観察できない)死との間をさまよっているような気がする。

写真や映像を撮られた誰か、服を着ていた誰か、道具を持っていた誰かがかつて存在していたことを、不在によって表す。あまりに断片的で匿名的なその痕跡を、時にはブリキ缶と電球で作った祭壇で悼み、時には布に転写してぼろぼろに傷つけ、普遍化しようとする。

一方で、「アニミタス」の、人間がいない場所に置かれて鳴り続ける鈴は、人の営みと無関係の場所に置かれ続けることで、人が滅びた後も人の営みの存在を示す痕跡となりうると同時に、鈴が失われて音が止まる予感という形で、人が滅びたその先の、痕跡そのものも失われる完全な滅びも暗示しているように感じる。

うまくまとまらないうちに時間切れになったが、ボルタンスキーの、不在とか不完全さを前提として、それを通して思考した結果現れる非肉体的死体=亡霊たちが好きだ。

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