明け方の海(66日目)

野宮さんが自転車にはねられたのは日が変わる直前のことだった。なぜ覚えているかというと病院に行かず終電で渋谷に行ったからだ。
ふらついて電信柱にぶつかりそうになるところをどうにか引っ張って避けさせ、野宮さん大丈夫ですか、と肩を叩くと、「まだ飲みたいのー?」とにへらにへら笑いながら言う。だって飲み屋さん大丈夫ですか、ってさー、はははは。いつも飲み終わったあとに名前を呼ぶたび、彼女はこう言ってひとりでよく笑っていた。
そのとき、くねくね手を叩いて笑う野宮さんの後ろをかすめるようにクロスバイクが突っ込んできて、突き飛ばされた野宮さんは思いっきり前にこけた。すぐに追いかけたが、クロスバイクに乗った男はちらりとおれの方を振り向くと、歩道から車道へ下りて速度を上げた。逃げ去る背中に罵声を投げて野宮さんのところへ戻ると、ギャザーの入ったグレーのロングスカートが破けて、そこから血濡れの膝が見えた。 すりむいた、と削れた、の中間くらいの傷。
夜間の病院探します、と携帯電話を取り出そうとするおれを制すると、野宮さんは「あークッソ」とつぶやきながらスカートの破れ目に指を差し入れ、フン、と下まで裂いた。チャイナドレスのスリットのように、怪我をした右足がスカートから露わになった。膝から伝う一筋の血が、足首を通ってパンプスの中へ消えていくのが見えた。
「よっしゃ、行くぞう」
「病院のアテあるんすか」
「うん、渋谷」

そう言って野宮さんは血濡れのまま山手線に乗り、周りの刺すような視線を物ともせず渋谷に降り立ち、スペイン坂をぐいぐい上って明らかに病院ではない雑居ビルへと入っていった。3階か4階あたりにあるバーとクラブの中間みたいな小箱に入ると、そこで踊っていた10人くらいの人が彼女に視線を送っては二度見した。店員さんがウェットティッシュと大きなバンドエイドをくれた。ノーザンソウルっぽい音楽が流れていたが、こういうのがノーザンソウルっていうのかは野宮さんに聞かないと本当のところよくわからない。
野宮さんはときおり「あーっ、いてーっ」と叫びながら誰よりも楽しそうにフロアで体を揺らした。おれは壁際の椅子に座ってレモンサワーか何かを飲みながらそれを見ていた。パタゴニアのハットをかぶった隣のお兄さんが「彼女いいね」と話しかけてきたが、「さっき5回目くらい振られたとこっす」と正直に言ったらもう一杯おごってくれた。

寒さで我にかえるとおれは海にいた。
体を起こすと右半身にびっしり砂がついていた。見回すと、背後の小さな林の向こうの曇り空に観覧車が突き出ているのが見えた。潮がくさい。左にコンビニのビニール袋があり、中には缶チューハイが3本と、おにぎりが2個入っている。
「起きたね」
裸足の野宮さんが缶チューハイをあおりながら砂浜を歩いてくる。膝のバンドエイドがだいぶ黒ずんでいて、垂れた血の跡はこびりついた砂で隠れていた。
野宮さんはグレープフルーツハイの缶を開けるとおれに差し出した。少し頭が痛かったが受け取ってすすった。体の芯が冷えてかすかに震えた。勝手におにぎりをひとつ開ける。野宮さんはツナマヨが好きなのであえてそれを取ったが彼女は気づいていないようだった。
「ここどこすか」
「海」
「膝大丈夫すか」
「元気」
飲んでると血ぃ止まんないねえ、と野宮さんは笑った。
「なんで10月に海?」
「いやさ、徹夜明けに海、ってイベントを生きてるうちに一度やっとくなら今だって思って」
「ああ、たしかにそれは一回やっときたいやつっすね」
おれはおにぎりをもぐもぐ噛みながら「すげーいいシチュエーションだからやっぱ付き合ってくださいよ」と言った。野宮さんは「ふふふ、やだ」とおれを振りながら水際に駆けていった。波に足を浸しながら「うおー、さみー」とひとりで叫んでいた。

ガラガラの京葉線で野宮さんは、あんたツナマヨ食べたでしょ、とようやく気づいて言った。おれが寝たふりをしてやり過ごしていると、ぺりぺりと昆布おにぎりの包装を破って食べ始める音が聞こえた。
おにぎりを食べ終わり、コンビニのビニールにゴミを捨てて口を結んで閉めると、野宮さんはぽつりと言った。
「ずっとこうして生きていきたいな」
こうして、がこの夜と夜明けのこと、今この瞬間を指すのなら、そのとき、おれもはっきりとそう思った。

それからしばらくそう生きて、大学を卒業し、就職し、10年になる。
野宮さんはカラオケの設備会社に就職してすぐに辞め、連絡が取れなくなった。だいぶ経ってから名前を検索してみたら、同姓同名の人がやっている情報商材のアフィリエイトブログが引っかかった。リンクを開かずにブラウザを閉じた。
明け方に海に行ったのはあのときが最後のままだ。野宮さんにも、どこかで夜通し飲んだ朝にあの海へ行くような、また生きていくための明け方のような一日が、あれからもあったのだろうか。
そうであってほしいと思いながら、また今日も夜に眠り、朝に目覚め、電車に乗り、海ではない場所へ向かう。

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