鉱石拾い(41日目)

いまルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』を読んでるんだけど、こういうハイレベルな自伝的作品を読むたびに、なんでこんなに昔のこと覚えてるんだろうこの人、と思う。
単に出来事を覚えているのではなくて、その時自分を取り巻く世界がどういう匂いだったか、どういう物品で構成されてそれが自分となんの関係があった(もしくはなかった)か、周囲の人と人がどう関係しあっていたか、そんな世界の中で何を考えていたか、その時空間を丸ごと高い解像度で再現している。

作家の資質は過去のことをどれだけ覚えているかで決まる、と誰かが言っていた。
その意味では、おれには作家の資質は一切ない、と言い切れる。
何しろ、小さい頃に自分がどう暮らしていたかをほとんど思い出せないのだ。

年表的にいつ何をしていたかはおおよそわかるが、その事実を彩る描写にあたる部分がごっそり抜け落ちている。
例えば、小学校に日々通っていたことはもちろん思い出せる。電車とバスを乗り継がないと行けない場所にあった。しかし、駅までどうやって歩いていったのかわからない。
駅までの道のりはもちろんわかるのだけど、どのルートを選んでいたか、ルートを日々変えたりしていたのか、どこへ寄り道したのか、そこで何を見ていたのか、その道行きをただひとり子供として歩くのはどういう心境だったのか、帰りに一緒にいた友達はだれか、その友達と何を話したのか、そういった記憶は忘却の海に沈んで、ありかの目星もつかない。
その忘却は高校時代までの大部分を包みこんでいる。大学時代もその海面上昇に飲みこまれ始めている。

記憶を失っていったのは仕事を始めてからだと自分では思い込んでいる。
思い出したくないことがあまりにたくさんあったので、サクサクと記憶を消去して自分を守るようになっていった気がしてならない。
その機能がバグを起こして必要な記憶までガスガスと消していってしまった。

でも不思議なもので、その記憶消去真っ盛りの時期に、初めてまともに小説を書いて、いまこんな偽物の名前を持って何かを書き続けている。
失ってしまったものを取り戻したり、別のまがいもので埋め合わせをしようとしているようだ。
フィクションという「嘘をつくこと」を選んだのは、記憶の代替品という意味ではとても自然なことに思える。

そしてさらに不思議なことに、書いたものの端々に、これはあの記憶が素材になっている、と後になってわかる断片が半ば無意識のうちに散りばめられていたりする。
小説を書くのは、そんな鉱石拾いのような楽しみがある、とも思う。

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