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ゆるやかな着地

存在感のある姑


 
晩年を特別養護老人ホームで暮らしていた姑(夫の母親)は、曇った目の時と澄んだ目の時があった。すっきりした明るい表情には、初対面の50代前半のきりりとした面影があった。

昭和5年生まれ、巣鴨のボタン屋の6人兄弟の長女。疎開先の長岡で新潟大学教育学部へ進んだ才女。小学校の教師。賢い倹約家で一家の舵取りをする主婦。夫の家柄に誇りを持つが夫に対しては冷淡さを隠さない妻。ふたりの男の子を産み教育し、大人になった子どもと時には対等に論争できる母親。

嫁にとってはかなり存在感のある姑だ。いろいろ良くしてもらったにもかかわらず、私は正直苦手だった。足りない嫁と思われているだろうという劣等感があった。肝心の夫は、母親に対しての感情を複雑にこじらせていた。だから同居は無理と決めつけていた。

縁あって嫁姑としての30年の時が流れ、それぞれの暮らしにいろいろなことがあった。母は次男の就職を機に長岡の家を引き払って東京で次男と暮らした。だがその最愛の息子を突然亡くしてから認知症が疑われるようになり、ケアマネさんから独居の心配をされることが増えていった。

母には自由に使える十分な年金があるのだから、グループホームや有料老人ホームを選ぶ方がお互いにとって良いのではないかと私は同居を渋ったが、当時は夫が強く同居を望んでいて、母もそれを受け入れた。おそらく母自身が見極めて自己決定できるタイミングを逃してしまったのだろう。もう流れに任せてしまおう、と腹を括ったのかもしれない。

80歳から同居の難しさ


同居に際して私たちは家を買い換えて、バリアフリーにリフォームをした。床の段差を無くしたり、手すりをつけたり、トイレの扉を外開きにするなどいろいろ。
トイレのドアを開けると人感センサーで便座の蓋が開くのが、母は苦手だったようだ。毎回、初めてのようにビクッとしていた。

80歳から約3年間を一つ屋根の下で共に暮らしたが、リフォームに限らずなんとなく噛み合わないことも多かった。カタチは整えても、母に寄り添う気持ちが足りなかったのだろう。

特養に入所してから


玄関から落ちて大腿骨を骨折したのをきっかけに、母は市内の特別養護老人ホームに入所した。人を責めたり疑ったりすることのない母は、施設の中で、居場所を上手に確保しているようだった。同居していた時より明るい声で話すようになった。家に戻りたいとは一度も言わなかった。長男の名前を忘れても嫁の私の名前は覚えていて、面会に行く度に嬉しそうに笑って、「朝子さん、きてくれたの? ありがとう」とねぎらってくれた。おかげで私は後ろめたさを覚えることなく、面会の時はふたりとも他愛無いことでよく笑った。

母は忘れていくことでゆるくほどけて、悲しみやしがらみから自由になれたのかも。朗らかに生きている母を見ていると「呆けるのも悪くないな」と思えた。ようやく母との距離が近くなっていった。「娘さんですか?」と聞かるほどに・・・。

「頭がばかになっちゃって、なんでも忘れちゃうのよ。困っちゃうわねぇ」という母に、「忘れるってどんな感じなんですか?」って聞いてみたことがある。
そうねぇ。・・・と母は、少し考えながら「とぎれとぎれに浮かんだり消えたり。・・・さっきのことと今のことがつながっていなくて、どうしたらいいのかわからなくなるの」と答えてくれた。とても的確な表現でイメージがすっと伝わってきた。さぞかし心許ない気分だろうと思った。
でも、言うほど悩んでいるふうにも見えないので「忘れちゃって、困っていることありますか?」と続けて聞いたら「あら。なにも困ってないわねぇ」あっけらかんと母が言うのでふたりで顔を見合わせて大笑いしたものだ。

施設での生活が長くなると、母は曇った目をしていることが多くなり、いつしか自分の年齢も忘れてしまい、60歳だったり45歳だったりした。個室のベッドから落ちて骨折したことがあったが、あれはおそらく、ふと目が覚めた時に若いつもりで動こうとしたからではなかっただろうか。
亡き夫のことも、こどもの数も忘れてしまった。39歳の若さで亡くなった次男の存在も。あんなに溺愛していたのに? だからこそ、なおさら忘れなくては生きられなかったのだろうか?

食べられず少しずつ衰弱


7年近く施設で過ごした2020年の正月明けから、母は食べられなくなり衰弱していった。ベッドに寝たままとなり意識もぼんやりしていった。「慣れている施設で臨終を迎えられたら一番安心なのだけどね」・・・と私たちは望んだが、それは施設として難しいとのこと。
施設と医療と家族の話し合いを重ね、主治医は、看取りのための入院を提案し、積極的な延命治療を行わないことで夫も同意した。「できるだけ痛い苦しいがないようにしてやってほしい」との望みを医師に伝えた。

1月30日、施設の車で提携先病院の個室に入院。「持って、いちにち、ふつかでしょう」とのこと。夫に連絡するとゴルフを切り上げて病院へ向かうという。私は整体の予約客を当面キャンセルし、ハルを預け、ずっと付き添う準備を整えて再び病院へ。

主治医との打ち合わせ通り栄養点滴はしないことになった。点滴を続けると浮腫んで痰や咳が出て、本人を苦しませることになるからだそうだ。看護師さんは体位交換とオムツ換えとバイタルチェックのみなので出入りも少ない。モニターには繋がっているが、拘束はない。母はほとんど眠っている。病室は暖かくとても静かだ。自宅から持ち込んだ加湿器で、空気がしっとり柔らかい。ゆっくり枯れていくというのは、こういうことなのだと実感する。サチレーションは低く呼吸困難で苦しんでもおかしくない数値なのに、母は穏やかに呼吸している。手を握ると意外に力強く握り返してくれる。声は出ないが、聞こえているし見えているようだ。

1日目の夕方、きづなと花ちゃんがお見舞いに来てくれる。
夜間、私は母のベッドの横の簡易ベッドに、夫は駐車場に停めたキャンピングカーの中で待機することにする。

2日目は、私たちは一度自宅に帰り、入浴し着替えてまた病院へ戻った。
夕方、圭ときづながお別れに来てくれる。
圭はスマホを祖母の目の前に掲げて、胎児の超音波写真を見せながら
「ほら見て。おばあちゃまのひ孫が夏に産まれますよ! 」と明るく声をかけた。
それから廊下に出て「この感じだと明日かな・・」と今後のことを夫と話していた。別れ際には私に「お父さんが、こうことをできる人だとわかって良かったよ」と言った。

私たちは死につつある母に時折触れながら、穏やかな時間を共有した。ゆるやかな着地をめざして、母の命の火がゆっくり燃え尽きるまで。病室は、末期を迎えた人の独特な匂いに満ちていった。私たちはその匂いにまみれてその時を待った。

ゆっくりと燃え尽きるように


3日目の早朝、夫と私が見守る中、母は最期の呼吸をして安らかに眠りについた。窓を開けると2月の冷気がこもった空気を吹き払ってくれた。
朝日に照らされた母の顔は、シワが伸びてつやつやと輝くように変化していった。
「品のあるきれいな顔をしているよな、おふくろは」と夫は何度も呟き、そして「俺はおふくろに愛されていたのかもしれないな」と言った。

「気づくのが遅いよ! そういうことは生きているうちに言ってあげなきゃ。死んじゃってから優しくしたってだめじゃん! 」私が心の中でツッコミを入れたことは言うまでもない。でも、息子と母親のこじれた糸がやっとほぐれて、お互いに許しあえたなら何よりだ。

2020年2月1日、母は89歳9ヶ月の生涯を終えた。
コロナ感染が広がり始めていた時期に、3日間病室に付き添えたこと、そして、孫、ひ孫に囲まれた温かい家族葬ができたことは奇跡的だった。
ギリギリのタイミングだったが、これも母の運の強さなのだろう。

可壽子さんらしいゆるやかな着地を私たちに見せてくれてありがとうございました。
お見事でした。

               「もらとりあむ51号 2022冬草」収録


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