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ツバキ文具店 雨宮鳩子様

カサブランカ空港へ向かう機上で


しっとりとやわらかい風が、田んぼの早苗をさわさわと撫でていく季節になりました。

鳩子さん、そしてご近所のみなさまは、その後お変わりなくお過ごしでしょうか。

 どなたともお会いしていないのにまるで、旧知の間柄のように親しく懐かしく想われるのが不思議でなりません。鶴岡八幡宮の横の静かな路地、藪椿の陰からQPちゃんがぴょこんと顔をだす様子がまざまざと目に浮かびます。



先日のことですが、私は飛行機のなかで、鳩子さんとバーバラ婦人とのこんな会話を小耳にはさんだのでした。

「ご旅行、どうでした?」

「最高だったわ。パリからモロッコにまで足を伸ばしたのよ。もうね、向こうにそのまま住んじゃおうって思うくらい素敵な所だった。

はい、これポッポちゃんにお土産よ。モロッコのアルガンオイルと、ローズウォーター」


それは奇しくも、成田からドーハを乗り継いでモロッコのカサブランカ空港へ向かう機上だったものですから、私は本当にびっくりしてしまって、寝ている夫を思わず揺り起こしてしまいました。
偶然の一致とはいえ、すごく嬉しくなってしまったのです。24時間以上を費やす、遠くて長くて窮屈な移動日。その初日に聞こえてきた、鳩子さんのしずかな声とバーバラ婦人のほがらかな声は、私のこころにきれいな虹をかけてくれました。なにか素敵なことが起こりそうな予感。初めて訪れるアフリカ大陸。「日の沈む地方」という意味のマグレブ地方へ、いよいよ向かっているのだという実感が湧いてきました。


ツバキ文具店を舞台にした鳩子さんとみなさまのものがたりは、そんなふうに、すっと私のなかに飛び込んできました。そして10日間の旅のあいだ、ずっと、私とともに移動しながら寄り添ってくれたのでした。
鳩子さんの書かれた心のこもった手紙、武田さんやQPちゃんから届いた手紙、そして先代の書かれた手紙は、どれも、私の旅の記憶とゆるやかに握手をかわし、温かく背中を抱きしめてくれました。

手書きのふみから遠ざかる日々

鳩子さん。

私も手紙が好きです。いえ、好きでした、と過去形で書くのが正確かも知れません。最近はメールやラインでこと足りたつもりになって、めったに郵便を投函しなくなりました。旅に出ると絵葉書やグリーティングカードについ目を惹かれます。それらは引き出しに増える一方。逆に、配達される手書きのお便りは、減る一方。そのことをすこしさびしいと感じつつ、ネットでも伝えたいことはたくさんあるし、受け取ってくれる人もいることを疑っていませんでした。

でも、鎌倉で代書屋を営んでおられる鳩子さんの、一通、一通への思いの深さを知るにつけて、私はむしょうにネット言語ではない手紙を書きたくなりました。手紙の作法でしたためられたふみ。わたしらしい、と自分でも思えて、相手からもそう感じていただけるような、心のこもったふみ。手書きのふみ。そういうものを書きたいと熱烈に思いました。そしてはたと動きが止まりました。

書きたいことばそのものが消えかかっていること。

そのような手紙を送りたい、また、送ることができる相手の顔がにわかに思い浮かばないこと。

書いて、封筒や切手を選んで、投函し、こないかもしれない返事を待つ時間を「ちょっとかったるいな」と感じていること。

まるで、失っていることさえ気づかずに損ない続けるアルツハイマー症候群になった感じさえして、ひどく戸惑ってしまいました。

こんなんじゃとっても書けやしない・・・と。


旅先で出会ったひとり参加のSさん

さて、話が少し戻りますが、モロッコの旅は大手旅行会社による、添乗員とガイドつきの22名のツアーでした。どうしても「日本村」になりがちな団体旅行なので、私は無難で表面的な会話を心がけていましたが、ある方とは少しずつ、心を割った個人的なはなしができるようになっていきました。

Sさんは、ひとり参加の小柄な女性。群れず馴れ合わず、メンバーのうわさばなしや悪口を語らず、ルールを守って終始穏やかに旅を愉しんでおられる様子でした。かつては、2ヶ月にも渡る海外ひとり旅や、友人とのふたり旅が多かったし、危険とトラブルが隣り合わせのそういう旅がいちばん記憶に残っていますねと、懐かしそうに話しておられました。

あるときは、写真と手紙のことが話題になりました。Sさん、写真は撮るけれども、帰国して2、3回見たら、データを消去するのだそうです。

いつも「終活」を意識して生きていること。きょうだい以外に係累がいないので、遺されて困るような物は残さないように心がけていること。おなじ意味でお土産も買わないこと。見るもの・聞くものがすべて、今限り、もう二度とはないのだと胸に沁みて、なんでも見てみたい・聞いてみたいと興味が尽きないのだということ。そういうことを淡々と、静かな笑顔で話してくださいました。

「以前は、旅先で気の合った人たちと、いまここにいるのよっていう絵葉書を送りあっていたんです。やっぱり、てらいなく話せるのは旅をしているもの同士ですから。でもね、いつのまにか誰からも来なくなってしまったの。しばらくは書いていたのですけど、いまでは私もすっかりやめてしまったんです」
と、そのときだけはすこしさみしそうに話しておられたのが印象的でした。


帰路。成田空港の税関を通る直前、私は思い切って、自宅の住所と名前の入った『ノユーク・チャイ』のポイントカードをSさんに差し出しました。

申し遅れましたが、私は設計事務の仕事をリタイアしてから整体を習い始め、今は、整体院でスタッフとして週一回のシフトに入りつつ、自宅でのささやかな整体ルームをめざして、「第二の人生」を過ごしております。

だからといって、Sさんに整体のお客様になっていただこうと狙ったわけではありません。
「もし気が向いたら、つぎのご旅行先から私に絵葉書を書いてくださいませんか。負担に思われたら気兼ねなく、これ捨てちゃってくださいね」
とお願いして、そこでお別れしました。
Sさんは「次はベネズエラへ行ってみたい」と話しておられたから、異国の地から絵葉書が届くっていいなぁと単純に思ったのです。名残惜しさもありました。

Sさんのお名前も住所も私は知りません。
団体旅行では珍しくないことですが、顔とエピソードが一致するころには、もう旅の終盤になっているものです。夫と私の間で、Sさんは「しなこさんに似たひと」で通じ合っていました。それは私の叔母の呼び名・・・

ファックス深夜便

鳩子さん。

はなしがあちこちに飛んでしまってごめんなさい。初めてお便りする緊張がいつのまにかゆるんで、書きたい気持ちがあふれています。詰まった栓がぬけたみたいに。


・・・父の妹である志奈さんは、今年の2月24日に天寿を全うしました。享年84歳、生き方を貫き通した孤高なフェードアウトでした。

叔母とは一時期、頻繁に文通をしていました。18年前、母が自死して、その後、姉と父を立て続けに癌で亡くすまでの10年あまり、私が39歳、叔母が65歳のころからです。

「ファックス深夜便」とひそかに名づけた文通は、叔母は経営する旅館のフロントから、私は自宅の設計事務の仕事場から、ほかに誰もいない夜更けや明け方にかけてファックスを通してかわされました。叔母から先にくることはなく、いつも私への返信の形で、ジッジッジッ・・・という紙を送る音とともに届きました。多いときには何往復も。

その少し温かい紙の上にぽたりぽたりと涙が落ちる日もあったし、叔母の縦書きの達筆がゆがんでうねる日もありました。深夜もひとりで仕事に向かうという仲間意識はきっかけで、私たちのあいだには年齢を超えた絆が生まれていったように思えました。
兄を慕う妹と父を慕う娘。葛藤。悔恨。生きていく覚悟。


やがて、私が少しずつ楽な息づかいで歩けるようになったころを境に、「ファックス深夜便」は自然に消滅していきました。叔母もそのころ、長年守り通した渋谷の旅館を整理して、神泉のマンションで猫たちとの悠々自適な暮らしをはじめていました。重荷を下ろした志奈さんは、以前のようには語らず、書かず、会うことも拒むような気配をみせて、こころなしか少しずつ透明になっていったような気がします。


私はSさんに、叔母のおもかげをだぶらせていたのだと思います。

最期まで叔母と文通を続けたかった。たとえ返事がなくても書き続けていればよかった。悪戦苦闘の10年間を叔母が蔭で支えてくれたように、私も少しは叔母の晩年のなぐさめになりたかった。いまさらですが強く思います。

「勘弁して頂戴、貴女・・・」

志奈さんはおそらく、苦笑しながらそんなふうに短く答えて、やんわりと、きっぱりと、ひとりで在ることを選んだのでしょうけれど・・・。

サハラ砂漠で砂滑り

鳩子さん。

モロッコのお土産は、バーバラ婦人にならって、アルガンオイルにしました。それから、ほろ苦くて滋味のあるアルガンジャムも。ローズの石鹸、ミントキャンディ、サハラ砂漠の砂、絵葉書、マラケシュのマジョレール庭園で見つけた素敵なボールペン。たくさんの写真データ。

なんだか気恥かしくなるくらい「思い出」をかき集めてしまいました。でも、どうやら一番のお土産は、しばらく居眠りをしていた私の中の「手紙魔」が目を覚ましたことのようです。鳩子さんと出会えたからですね、きっと・・・。

ありがとうございました。

どうぞご近所のみなさま方にもよろしくお伝えくださいませ。鎌倉は大好きな町なので、近いうちに出かけてみたいと思っております。
鳩子さんやQPちゃんたちの声が聞こえてくる路地をぶらぶら探しながら。
昔ながらの貯金箱みたいな赤いポストを目印に。

              感謝をこめて 2016年6月6日 神山朝子

雨宮鳩子様

『ツバキ文具店』(小川糸著・幻冬舎刊)に寄せて…

「もらとりあむ40号 2016年夏草収録」


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