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生きづらさを感じていない同性婚カップル

生きづらさを感じていない同性婚カップル


# 結婚の自由をすべての人に



2021年3月17日に北海道地裁は、同性婚を認めないのは「法の下の平等」を規定した憲法14条に反するとした画期的な判決を下した。
夕方のニュースを見ていた時、二女が弾んだ声で電話をくれた。彼女は、自身のSNSでもレインボーフラッグが旗めく写真と共に、こう書いている。

「私達にとって特別な日です。クラウドファンディングを通じて応援していた同性結婚の裁判でよい判決が出ました。大好きな人と安心して老いていける世の中になると信じています。

#結婚の自由をすべての人に

娘の喜びが素直に伝わってくる。彼女は2年前に結婚式を挙げ、同性パートナーと暮らしているからだ。
先日、あるきっかけで、私は娘たちと、今までお互いにあまり触れることのなかった同性婚をめぐる話ができた。濃い時間だったし、目から鱗が落ちるようだった。セクシュアリティや双方の家族の話は、プライベートで、微妙なニュアンスを含んでいる。私の筆力ではとても描けないし、そうすべきではないと自戒している。だから、心に響いた発言や、共有したエピソードという視点から書いてみたいと思う。ここからは、いつものように、娘のことはきーちゃん、パートナーはハナちゃんと親しみを込めて呼ばせてもらおう。

当たり前のこととして日常的に



「生きづらさを感じていない」と、ふたりは口を揃えていう。
「人生のパートナーを、誰よりも大切にして暮らしているだけ」だと。
私の印象では、お互いの関係性を日々、バージョンアップしているように見える。バグを見逃さず、サイバー攻撃を許さず、最強アイテムを獲得し、知恵を出し合い、丁寧に愛情を持ってシステムを構築しているような感じだ。そのための労力の出し惜しみは、ふたりにはまったく感じられない。親密だけど馴れ合わず、お互いの想いを真摯に聞き合い尊重する。ごく当たり前のこととして日常的に。
彼女たちの話し振りからは、20代後半の女性としては、かなり秀でた社会人としての自信がうかがえるし、将来のビジョンに向かって、大胆に学習し行動している姿は頼もしい。
「法的に婚姻が認められれば便利だから、そういう活動に賛同するし関心もある。でも法的に認められようと認められまいと、今と変わらずに生きていくと思う」

「普通に暮らしている同性婚カップルもいるんだって、知らない人が案外多いのかも。だからといって、自分たちの日常を文章化して、公開する意味は感じないな。どんな切り口で描いたとしても、誰かを傷つけてしまうような気がするから」

「SNSに、<今日は奥さんとお出かけ! >って日常のなにげない写真を載せて、それを見た人が、おっ楽しそう、いいなって普通に思ってくれる。それが、僕たちらしさかも」

「性的マイノリティだと意識したことはない。LGBTQと括られるのも違和感がある。愛する人と共に生きたいだけ。そこさえ見失わなければすべてうまくいく」


ふたりの生き方はシンプルでブレないな、と正直、驚いている。親世代の私自身は揺らいでばかりだ。だからこそ、彼女たちの存在は眩しい光なのだ。私も少なからず影響を受けていると思う。
例えば、今を大切にすること。
目の前の人を大切にすること。
大切なものを慈しむためのスキルなど。
ふたりを見ていると、いくつになっても自分を変えていけるような勇気が出てくるのだ。彼女達のあり方はいつも私の想定を超えている。時代の想定を超えていると言ってもいいかも知れない。
ふと気づくと、いつのまにか見晴らしのいい心地よい場所に連れてきてもらった、という感じなのだ。


ボクかわたしか



ところで、深夜まで及んだ会話の終盤は、きーちゃんの<ボク>変遷エピソードだった。3歳違いのお兄ちゃんの子分になって遊ぶことが多かったせいか、きーちゃんは自分のことを<ボク>と呼ぶことを最初に覚えた。
保育所、小学校から中学校卒業まで<ボク>。女子高校に入学した時<わたし>に変えた。今は、プライベートでは<僕>というのが自然らしい。

「わたしてゆいたいんだけどさ
いつもぼくてゆてしまうんだよ
おかうさんがゆてもさ はづかしくてゆえないからさ
あのさ いつもぼくてゆうから
わたしてゆわないからだとおもている」

これはきーちゃんが小学校1年生の5月に、私に書いてくれた手紙だ。
幼い時からの口癖の<ボク>や、どちらかというと男の子っぽいものが好きな傾向を、学校という社会の中で、それなりに矯正され始めた時期だったのだろう。
「なんて健気なの」
と微笑ましくなった私は、この小さな手紙を、仕事机の横の壁に貼って眺めていた。私は、子たちが書く鏡文字や、小さな<つ>がなかったり行がめちゃくちゃだったりする、手紙や落書きが大好きだった。
たどたどしく、一生懸命に書いている姿を想像して嬉しくなってしまうのだ。きっといつか自分で気づくからと、間違いを指摘したり直そうとはしなかった。

「おかえりー」と元気に帰宅したきーちゃんに、自宅の仕事場から両親が「ただいまー」と返事をする習慣もずっと続いた。少し大きくなって
「おかあさん、まちがってるよー! ただいまは、いえにかえったひとがいうんだよ?」
と指摘されて、夫と目くばせして笑った記憶がある。

同様に、女の子が<ボク>と言うことも、<わたし>と言えなくて悩んでいることも、あまり心配してこなかったと記憶している。いつか気づいて直せる違いのひとつ、くらいに浅く考えていたからなのか。なにも問題ないと考えていたからなのか。個性だと認めていたのか。今となっては身贔屓な理由ばかりを探してしまうが。

「そういえばあの時の手紙…」と、29歳のきーちゃんが、ずっと忘れていたけど、たった今、思い出したといった軽い口調で、
「みんなが見るところに貼っていたよね、ずーっと。それを見て、お母さんも、ボクじゃなくてわたしと言ってほしいんだろうなって思っていた」

「気づかなかったよ。そういうつもりで貼ったわけじゃないんだけど…」
うろたえる私に、ハナちゃんがすかさず
「朝子さんは、きーちゃんのことかわいい!! って思ったんですよね? 」
とフォローしてくれて、3人で笑った。

 電話の翌日、私は押し入れの段ボールの中から、その手紙を見つけ出した。
10年以上仕事場に貼っていて、タバコのヤニで茶色く変色した小さな紙片。文字も薄れかけている。1998.5の日付は私の文字。
片隅には、子たちと私の色褪せたプリクラが貼ってある。4人で顔をくっつけ合う仲良し写真だ。私の大切な宝物。3人の幼な子たちからもらった手作りプレゼントを詰め込んだ宝箱の中に、きーちゃんの手紙もしまってあった。

その懐かしい手紙を見ていたら、じわじわと涙が溢れた。あの時に戻って、6歳の娘をぎゅっと抱きしめて、ボクでもわたしでも、きーちゃんはきーちゃんだよ。だいじょうぶだよっていってあげたかったな、と今更だけど思った。
それから不思議だけれど、過去に光が差して、見える景色が少し変わったような感覚がした。生きているとまだまだ面白いことがありそうだ。

パートナーシップ宣誓

今年4月、彼女たちは市のパートナーシップ制度に登録し証明書を受け取った。埼玉県では現在12の市町が制度をスタートさせ、他の自治体でもこの流れに続く動きがあるそうだ(2021年4月23日現在)。彼女達としては心強いことだろう。

記念日のSNSの記事はいつものように淡々と明るかった。
「私たちは、家族も職場も友達も素敵な周りの人に囲まれて、自然に生きてるよ〜というだけでなんだか喜んでくれる方もいるので、これからも自然に生きていこうと思った!」

2021年7月15日発行『たぁくらたぁ』54号掲載

#創作室


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