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何をするかどうやるかでなく誰がやるか

忖度なしの発言

最近、色々と考えさせられる事象が多い。
何をするにも周りのことを考え、どう反応されるかなど気を遣いながら生きてきたボクにとっては発生する行為や事象が多いほど気を遣うことが増えてくる。
ボクがする気遣いなんて、他の人からすれば大したことないかもしれないが(常にマイペースと言われ生きてきたため)、それでもボクにとっては大切なこと。
それをするかしないかで、ちょっとした人付き合いだとか人間関係だとかそういったものを構築できるかが懸かっていると思うからだ。

そんなことを考えながら、そういえばいつからかあまり忖度なくモノを言うことも増えたなと思っている。
工作機械メーカーに在職していた際も、営業の時はそうでもなかったものの本社へ移動になり第二線からの営業応援部隊となってからはかなりそういった面が強くなっていた。
第一線で必至に動き回っている営業の人たちのために、開発や製造の方と机上で舌戦を繰り広げることも多い。
逆に、営業の方に開発や製造側の意見や想いも伝えなければならない。
そういった時にはそこまで気を遣っていられないときもある。
そのあたりからだろう。
自分の意見も言うようになってきたのは。

転職してからはなおさらその色が強くなっていった。
旅行業という異業種に飛び込んで、ボクがもたらすことのできるメリットと言えば、メーカーで培った営業力と大企業のシステマチックなやり方くらいだ。
知識や経験は圧倒的に劣っていて学ばなければいけないことが沢山ある。
それでも吸収するだけでは会社のためになっていないので、自分の知識や経験をフル活用してボクの知見を述べる必要があった。
そのためには忖度なしに言わなければならない場面も多かった。

そういった経験を経て、今また色々な立場から発言しなければならないことが多い。
バランスを確認しながらすることもあるけれど、毎回毎回それが出来なくなっていることも事実。
時には忖度なしに発言をしてしまうこともある。
言い訳ではなく、それはその場に必要なものと判断してのこと。
だからこそボクがその場で選択したものに反省はするものの後悔はない。

いま二日間で得られる情報は平安時代の一生分

情報の行き来が激しい今日、疑問や課題はすぐに調べて答えを出すことが出来るようになった。
一節によると、平安時代の人が一生のうちに得る情報を現代の人は二日間で得ることができるらしい。
そんな時代に人は何を求めるのだろう。
何をするか、どうやるか、というものは難なく調べることができる。
自分自身でやるかやらないかは別として、こうすればできる、こんな風にやれば上手くいく、というのは知識で得ることができる。
となると大切なのは、

それを誰にしてもらうか
誰がやるか

になる。
同じような結果になることであっても、全く知らない誰かよりは自分が信頼している人にやってもらった方がお互い気持ちが良い。
その感謝の気持ちに物やお金を渡すのならばなおさらのこと。
自分に親しい人喜んでいる顔の方が依頼したこちらも嬉しくなる。

となると、人間関係や人付き合いを構築している人の方がこの輪が沢山できるのだから営業的な要素が多いのではないかと思う。
そういった意味では、誰でも営業力を備えていた方がいい。
どんな形でも、上手にできなかったとしても。

いくらインターネットが普及したところで、地道にそういった活動をして自分を応援してくれる人、または自分が応援したくなる人を増やしていくことが大切なんだろう。
それは今も昔も変わらない。

誰がやるか誰が言うか

行為ということでは、活動も発言も同じ。
誰が言うかによって聞き手は捉え方を変えるし、「あのひとが言っているからこうだよな」と考える。

大切なのは、誰がどのタイミングでどういったことを踏まえてその発言をするかによる。
だからこそ、忖度なしの発言とは言いつつもタイミングと発言の仕方には気を付けている。
それでも聞く人が違う意図で捉えることも少なくない。
まだまだ経験値が足りませんね。

聞く人がそう捉えるのであれば、そういった捉え方もあるのかと納得して次に活かさなければならない。
その発言だけで背景までを知ってもらおうとするのは少し無理があるのかもしれない。

結局のところ良い意味での『根回し』は必要ということ。
どれをとっても何をするにも地道な活動は必須ということですね。

少しずつでも動いていかないとな。


GOING MY WAY.

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