7月某日

子どもが2歳ぐらいの頃。先生との連絡ツールであるお帳面にこう書かれた。「靴を揃えていました。物を大切にする心が育ってきていますね」。保育士の先生のご指導をありがたく感じると同時に、生き物っていうのはそういう力を少しずつ身につけながら人間になっていくのかと感心した。物を大事にするのは人として基本でもある。よし、よし、ふふふと思ったものだ。
 
あれから数年。子どもの机は物であふれている。椅子の下にも真白(だった)カーペットにもあらゆるものが落ちている。書棚の上には学校で描いた絵がくるくる丸められたまま投げられているし、先日買った扇風機の段ボールがその前にどんと置かれている。何かの体験教室で作った木工の工作は、強風の日に落ちたので捨てようとしたが、捨てないと言い張って半分かけたまま置かれている。そう、物を大切にする心が深くなりすぎたのか、捨てられない人になっている。所有欲が強すぎるのである。

なんでこうなったのか。先日は友達からいただいたゼリーの半透明の箱と、いつか買ったチョコレートの大きな箱を絶対とっておくとがんばった。これで20分ぐらいもめた。文字で書くとさらっと読めるけど、床は踏みならすわ、大声で叫ぶわと、ちょっと児童相談所に電話されてもおかしくないレベルになっていた。そもそももめるとわかっていたので、最初から見せない、教えない作戦だったのだけど「見せたら喜ぶかな」「一緒に開けたら楽しいよね」とつい思ってしまうから私もいけない。

空き箱、書き損じの習字、カラフルな輪ゴムを編んで作ったアクセサリー、放ったからしにしてあってホコリをかぶっていたら、それはもうゴミにしか見えない。叱るときも「これもゴミ、それもゴミ」と叫んていた。けれど、先日、ちょっと思いがけない話を聞いたのだった。

ミュージカル『キャッツ』である。ご存知の通り、世界中でロングラン公演している人気作だ。舞台は猫たちの都会のゴミ捨て場であり、猫から見たサイズに拡大された、大きなゴミが劇場内を所狭しと覆っている。『キャッツ』の魅力にそんな舞台装置としてのゴミがある。

専門家の方がゴミについて説明をしてくれた。「ゴミといえばただのゴミであるが、それは誰かのゴミであったもの、思い出が詰まっている」。確かにそうかもしれない。もう用はなくなって捨てられるしかないものだけれど、でもほんのついさっきまで誰かの何かであり、ということはそのゴミと名がついたものには、誰かの思い出のあるものだと。そして私はあることに気づいた。子どもは一言もそれらをゴミと呼んでいなかったことに。思い出があるからまたは、これから思い出を作ろうと思うから捨てられないのかと。

この経験を経て、ひとまず子どもの所有欲は尊重する方向に舵を切ることにした。何もかもを一刀両断に断罪しないという意味である。子どもには子どもの世界があって、子どもにとっては必要な登場人物だったのだろう、ということにする。ま、でも整理整頓はなんとかしてもらうけどね!


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