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アートに教わる~東京藝術大学 藝祭より~

もう一か月以上前のことになるが、東京は上野公園に隣接する東京藝術大学の学園祭「藝祭」に行ってみた。

アートギャラリーを運営している友人がコーディネートしてくれて、鍛金という分野の研究室や工場(こうば)、制作過程(の一部)などを拝見する機会をつくってくれたのだ。
それはそれで、一言では言い表せないくらい楽しい体験であったのだが、その見学のあとに金工棟、彫刻棟、絵画棟と廻り、学生さんたちがこの日のために制作した作品をたくさん鑑賞した、そのときに感じたことを書いてみたい。

それは一言でいうと、アートに勇気をもらった、ということであり、日々の生活やビジネスに向かい合っていくにあたって大事な心持ちを与えてくれた、ということである。

もちろん、「アート作品を鑑賞すること」からの諸々の喜び、眼福なども得難いものであるが、ここでは、アートの制作やアーティストの姿勢・取組みなどについて思いを巡らせたことを書いてみる。


潔く、さらけ出す

なんと言っても、誤解を恐れず書くと、アートはスッポンポンなのだと思う。

自分のやりたいこと、やるべきことを作品として作り上げて、それをそのまま「ポンッ」と出していく。
ビジネスでの企画・資料作成とは異なり、(担当教官の指導などもあるかもしれないが、一度出来上がったら)事前の交渉や、意見のサウンド、アンケート調査など無く、完成した作品をそのまま露出する、赤裸々に出していく。取り繕うことがない。

けなされたり、酷評されたり、恥ずかしい気持ちになることを恐れず、むしろ怖れを吹き飛ばし乗り越えて、逃げずに正面から出していく。

その姿勢に学びたい。
自分の生活・仕事で、上手くいかないこと、恥をかくことを恐れてチャレンジをためらっていないか、人の目を気にして自分を出し切らないことはないか、心に留めておきたい。

北斎曰く、
「三流の玄人が、一流の素人に勝るのは、恥を忍んで、恥ずかしい作品が出せるからだ」

心・体の奥底からの関心・気持ちを全力で表現

誰かに言われた、とか、空気を読んだ、ということではなく、自分という存在の奥底、心の底、脳の奥の奥と向き合って出てきたもの、やりたいこと、やるべきことをアート作品として表現する。
それは結局、自分を出す、自分を表現する、さらけ出す、ということだろう。

そうした表現すべきものを正面から出していくにあたって、ときには膨大な時間をかけて、極限まで、自分の納得のいく理想の作品を作り上げる。自分というものを、また自分の情熱を作品として昇華させる、そこに落とし込む、全力の取組み。

翻って考えるに、
アートではない自分の生活・仕事においても、本当にやりたいこと、やるべきことを、誰のためでもなく自分が納得できるモノに仕上げて出していきたいものである。(出していこう!)
もちろん自分の納得というのは自分限りのものであり、評価は他者がするものであるが、でもやはり、自分は自分ができる仕事をするしかないのだ。

多様性・オープン・レスペクト

こうしたアートにおける営みの前提になるのが、アートの世界における本来的な美質である多様性、他者へのオープンな目線とレスペクトがあるだろう。

学生さんたちが制作した作品を一日で見て廻ったそのときだけでも、本当に多種多様な作品が展示されていた。当たり前かもしれないが、「多種多様」なんて一言ではとても表現できない(そもそも、文字で表現ができるのかどうか)くらいなのだ。
自分が出していきたいモノゴト、キモチを、自分なりの表現で作っていくのだから、必然的にバラエティに富む(こういう言葉では、やはり軽すぎて表現できていないのだが)ことになる。

そして、それぞれの作家さんが奥底からの自分を表現した作品が、お互いにスッポンポンで並んでいる、それはもう、それぞれにレスペクトをもってオープンに向き合うしか、やりようもないのだ。


少し興奮気味で、思い込みの激しい表現になってしまった感じもあるが、いずれにせよ、アートには本当にすこぶる触発される。
自分自身は絵心なく、そうした表現をしていくことは難しいのであるが、自分の生活・仕事の世界で、できる限り、アートにもらった勇気を大事にしていきたい、なんて思うのだ。

そして、そういう勇気をくれる作家さんを応援していきたい。


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