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-友人の命日を迎えて-

仕事場でも、家庭でも。

陰でこそこそ言われて、罵声の限りを浴び続けている。

まともなことを、真っ当に行なっていても、その罵声は消えることはない。

環境が悪い、と言われれば、そうかもしれない。

人を憎まないように、そう思っても、憎まれるのだから、憎むしかない。

人は、罵声を浴びるのは、わたし自身の責任だと言う。

仮に、その論理を世間に適用するなら、殺された人間には殺されるべき理由があり、他人に殺された人間は、本人に責任があり、病気や事故で亡くなった人間にも、本人に責任がある、という話になるであろう。

しかし、それでは、あんまりだろう。

百歩譲って、他殺や病死、事故死が、本人の責任だとして。

殺されるほど憎まれる、それは本人の責任かもしれないし、病気は本人の不摂生かもしれない。

事故に合わない危機管理も大切かもしれない。

だから、その辺りが、本人の責任である、というのも、確かにそうなのかもしれないが、それでも、社会を過ごしやすい社会にするのであれば、そこは、他殺は犯人を責めるべきだし、病気は不可抗力とするべきだし、事故は不慮の不幸とするべきだろう。

話が少し、すり替わりすぎた。

あなたが、もしも、大切に想う人がいるなら。

その人の不幸を、慰めてあげてほしい。

その人の話を、きちんと聞いてあげてほしい。

その人が苦しんでいるとき、離れないでいてほしい。

その人は、もしかしたら、今夜、命を絶ってしまうかもしれない。

わたしの友人は、若い頃に、命を絶った。

彼はまだ10代であった。

亡くなる前夜、わたしは彼と電話していた。

女性関係で揉めていた。

「今から、来い」

そう、言われた。

わたしは直感で、行ったら命を狙われる、そう思い、断った。

そして、翌朝、その相手方の女性から、「彼が命を絶った」と連絡を受けた。

行けばよかったのか、それは、未だによくわからない。

いや、正確には、行くべきだった。

わたしは、わたしの弱さに打ち克つことができなかった。

そのくらい、わたしはどうしようもない人間なのである。

それから、来年で20年になる。

先日、命日を迎える友人のお墓詣りをしてきた。

友人となり、ひとりなり、毎年、足を運んでいる。

祈るような気持ちで、手を合わせている。

今でも、わたしは、救いようもないほど、どうしようもない人間である。

何も変わらない、臆病で情けなくて、みっともなくて、恥ずかしくて、心の弱い人間である。

その、心の弱さを、今もまた、性懲りもなく小説などに書き連ねている。

誰に咎められても、正義を振りかざすことさえままならないまま、涙を堪えて筆を取り続ける、その程度の人間である。

しかし、太宰治を引き合いに出すまでもなく、人間などは、そのように情けないものである。

今夜のこのnoteの記事が、誰かの心に触れられる可能性がある。

そのことを考えられるくらいには、少しは年齢を重ねている、とわたし個人は、勝手に思っている。

ぐだぐだと、まとまらない記事になりました。

あなたの、大切な人を守ってください。

あなたの、大切な人を憎まないでください。

それでは、また好き日に。

◇ ◇ ◇

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