「樽栓一撃」[2] Der Zapfenstreich(デア ツァpフェン・シュトrライヒ)[2]

 「樽栓一撃」がどうして「栄誉礼」と訳せるかは、筆者の前回の、同名の投稿(21年12月6日付け)を読まれたい。今日は、前回のGroßer Zapfenstreich(「栄誉大礼」)についての概説を受けて、今度連邦首相4期を終えて退任することになったDr.Merkelメルケル博士のための「栄誉大礼」が先日の21年12月2日に挙行されたことに伴ない、本日の投稿で、その時の状況をもう少し具体的に述べようと思う。

 ドイツの「栄誉大礼」は、松明行進を伴なうので、必ず夕方から儀典が始まる。夏であれば、19時15分から始まった行事は、まだまだ明るい中であったはずであるが、冬になると、夏時間も終わっており、ドイツは遅くとも17時には暗くなっている。という訳で、今回の、メルケル首相の退官・退任「栄誉大礼」は、もうすっかり暗くなった中、19時15分から、ベルリンにある連邦防衛省の大きな中庭で執り行われた。連邦防衛省の建物は、ブランデンブルク門から西・南西に行ったティーアガルテン地区にあり、帝国時代から軍事行政関連の省や部局が入っていた一連の建物群で、Bendlerblockベントラー・ブロックと呼ばれている。ベルリンにある日本大使館からは1㎞も歩かないで行ける場所である。

 栄誉大礼の主催者は、連邦防衛省の女性大臣で、女性の中佐に伴なわれて防衛省の建物から中庭に出てきたメルケル首相が、受礼者である。彼女と共に、防衛省大臣と、それから防衛軍のトップの「総監」(四つ星の将軍であるが、意図的に旧国防軍の名称などは避けて、こう呼ばれており、日本の「統合幕僚長」に相当する)が、メルケル首相の左右を固めている。既に、32名の海軍兵士が松明を掲げて、ゆがんだ半円、俗に言う「真珠の首飾り」を描いて立っている。

 式が始まる前に、賓客(連邦大統領夫妻、連邦議会女性議長、そして自分の4期に亘る内閣の元閣僚達など)を前にメルケル首相は、任期最後の演説を行なう。

 ドイツ連邦共和国が成立した1949年以降、連邦首相になった人間で、メルケル首相が8人目(!)、そして、女性では初めてで、CDUの首相としては5人目、2005年11月から4期連続16年間その座に留まり、東西ドイツを統一した首相として歴史にその名を残すH.Kohl(コール)の任期期間より10日間程だけ任期期間が短い。思い返せば、2008年のリーマンショック、15年の避難民大量受け入れ(私見、ノーベル平和賞受賞に値する政治的判断)、20年3月以来のコロナ危機と、大きな政治問題に対処しなければならなかった彼女の頭の中を演説中によぎったものは何であったろうか。

 演説の中で特筆したいことは、学問の声に耳を傾けないところには陰謀論が蔓延るのであり、これに対しては断固戦わなければならないと述べたことである。東西ドイツ再統一という政治的変動がなかったならば、もともとは、東ドイツで物理学者としてキャリアを積もうとしていた人間の、この言葉は重い。約6分の、あまり長くない演説を、メルケル首相は、常に陽気な心持ちを保ってことに当たることを訴えて、終えた。彼女の政治スタイルは、「メルケリズム」と言われたが、それは、いたずらに主導権を行使せず、まずは状況をよく観察し、分析して、時期が来たら、一気に解決策を実行に移すという、やり方である。この政治スタイルと、スラックスに、上はディザインの固定した、襟なしのジャケットを色違いで何着も着るというファッション、そして、立っている時に体の前で、両親指と両人差し指で菱形を作るボディー・ラングエージなどが、恐らくは、ドイツの戦後政治史に語り継がれていくことであろう。

 演説が終わり、メルケル首相を中に、メルケル首相から見てその左側に防衛大臣が、その右側に総監が着席して、「栄誉大礼」がいよいよ始まる。遠くから小太鼓の連打とピッコロの音が聞こえ、防衛省の中庭に、松明に伴なわれた儀仗隊が入場してくると、鼓笛隊の音は、建物の壁に反響する。「栄誉大礼」を執り行うのは、防衛省付きの警護大隊の、9個ある内の4個中隊(陸軍2,海空軍各1)で、これに、本部付き音楽隊が加わる形となる。受礼資格者は、ウィキペディアによると、原則的に、大統領、連邦首相、防衛省大臣、大将及び中将となっている。(これに、連邦議会議長が入っていないとすれば、防衛軍が「議会軍」であるという原則からして、これは、残念なことである。)

 儀仗隊の入場に奏でられる曲は、ベートーヴェン作曲の「ヨルク軍団のマーチ」で、儀仗隊が受礼者の前で隊列を整えている中、このタイミングで、遠くから花火の音が聞こえてくる。恐らく、ベルリンの東西を貫流するシュプレー河岸のどこかで花火を打ち上げているのであろう。

 儀仗隊の陸軍二個小隊が捧げ銃をする中、儀仗隊指揮官(中佐)が受礼者の前に歩み寄り、儀仗隊が位置に付いたことを報告すると、別の士官がメルケル首相に記念の証書を手渡す。少し微笑みながら証書を受け取るメルケル首相である。

 こうして、「栄誉大礼」は第二章に入り、受礼者の個性がその選曲に表れる「Serenadeゼrレナーデ:小夜曲」の部分に移る。これは、日本の栄誉礼の、「冠譜」に当たるであろうか。

 メルケル首相は、この「セレナード」に三曲を選んだ。中々、選曲の中身が音楽隊指揮者(中佐)に伝わってこず、9日間で編曲、練習をするのは大変だったと言う。とりわけ、吹奏楽団用のアレンジがなかった第一曲目が大変だったようである。

 その一曲目は、と言うと、これまで、西ドイツのハンブルク生まれの自分が東ドイツで育ったことを強調してはいなかったメルケル首相に珍しい選曲で、東ドイツのポップ音楽である。日本の報道とは異なり、Nina Hagenニーナ・ハーゲンが、まだ東ドイツ、つまり、DDR(デー・デー・エrル:ドイツ民主共和国)にいた頃で、彼女が、「パンクのゴッド・マザー」と呼ばれる前にDDRでヒット曲となった曲である。

 この曲「Du hast den Farbfilm vergessen:あんた、カラーフィルム忘れたでしょ」の発表が、1974年で、当時19歳の、少々だみ声のハーゲンが、DDRで中々手に入らないカラーフィルムを忘れたと言って、自分の彼氏ミヒャ(ミヒャエルの愛称)を難詰し、今度忘れたら、あんたとは別れると「脅す」という、若干反逆的なニュアンスを持つ曲である。メルケル首相はこの年、ちょうど二十歳で、その前年にはベルリンから北のある町でプロテスタントの牧師を父として育った地を離れて、ベルリンより南のザクセン州の商業都市ライプツィヒに来て、同地の大学で物理の勉学を始めた時期である。学費の足しにディスコテークで学生アルバイトをしていたというから、恐らくはこの時にHagenの曲を聞いたに違いないであろう。74年に知り合った学友のUlrich Merkelと77年には結婚する。82年にはUlrichとは離婚することになるが、離婚後も旧姓Kasnerに戻さなかったことにMerkel女史の性格の一端が窺える。メルケル首相にとって、Hagenの、この曲は何れにしても本人の「青春時代」を象徴するものなのであろう。因みに、Hagenは、反体制派に組したとされて市民権を剥奪され、76年末にDDRを出て/出されて、ロンドンに向かい、そこでパンクの「ゴッド・マザー」になる訳である。

 メルケル首相が選んだ二曲目の「ゼレナーデ」は、1964年発売の、西ドイツの映画俳優、ドイツ・シャンソン女性歌手Hildegard Knefヒルデガルト・クネーフが歌ったシャンソン曲「Für mich soll's rote Rosen regnen私のために赤いバラが雨のように降って欲しい」である。発売年から言うと、メルケル女史が10歳の頃のことであるから、その当時に聞いた思い出の曲とは思えない。ゆえに、選曲の理由は想像でしか言えないが、歌詞の始めに「16歳で」と出てくるので、まずは、自分の16年の首相としての任期期間になぞったのではないかと思われる。そして、歌詞の内容からも選曲の理由が想像できる。

 歌の一節目では、16歳の時は、すべての奇跡に遭遇したいと思い、私のために赤いバラが雨のように降って欲しいと望んだ。二節目では、その後の自分は、一人ではいたくないが、同時に自分は自由でありたいと望んだ。そして、三節目の現在(いま)は、自分は思う:新しい奇跡が起こり、自分が新しく成長し、自分が期待するものの大半が手の中に留められるようにと。歌の最後が、「Ich willイヒ ヴィル:私はそう意志する」と終わることもこの曲の、積極的で、しかも印象的な部分であり、12月2日のこの日のメルケル首相の初めの演説に符合する部分があるように思える。

 セレナードの三曲目は、やはりメルケル首相がプロテスタントの牧師の娘であることを思わせる選曲で、キリスト者であれば、必ず一度は聞いたり、歌ったりしたことがある有名な教会歌曲「Großer Gott, wir loben dich偉大なる神よ、我らは汝を讃える」である。もともとはカトリック派の讃美歌で、ラテン語の歌詞が18世紀にドイツ語に訳された歌曲であったが、今日では、カトリック派、プロテスタント派の区別を乗り越えようという世界教会主義の歌曲となっており、この点からもいかにも均衡を欠かないドイツ国民全体の連邦首相であろうとしたことを窺わせる選曲であった。

 こうして、「栄誉大礼」の第二章が終わり、第三章に入る。この章は、前回に説明した通りで、「栄誉大礼」の核を構成する部分である。鼓笛隊の「おびき寄せ」で始まり、プロイセン栄誉大礼マーチ、騎兵隊用の帰営ラッパ、「祈り」、そして国歌演奏である。とりわけ、「祈り」の場面では、儀仗隊指揮官がメルケル首相の前に進み出て、「気を付け」の姿勢で、左手で戦闘用ヘルメットを脱ぎ、脱いだヘルメットを胸の位置で止めて、メルケル首相を、「祈り」の間中、注視するのである。握手や乾杯の際には相手の目を注視するのが習慣のドイツではあるが、やはり、ずっと注視されて、少々いたたまれなくなるのか、時々指揮官から目を離し、瞬きしてから、指揮官を見返すメルケル首相に親近感を感じたのは筆者だけではないだろう。

 国歌演奏後は、儀仗隊指揮官がセレモニーが終わったことを報告して、観閲行進となる。観閲行進が済み、安心したのかメルケル首相は、Knefの歌に合わせて、式台の脇に生けてあった赤いバラの花束から一本バラの花を取りだし、賓客の方に感謝の意を込めて、それを見せ、思い付いたのか、もう一本のバラの花を取って、女性の連邦防衛省大臣にそれを手渡した。同行していた、現在の夫、量子化学者のJ.Sauer氏にはバラの花は手渡さなかったこともいかにもメルケル首相らしいと言えば、言えるだろう。こうしてメルケル首相は、Audiの高級リムジン車に乗って、後部座席から手を振りながら、会場を後にしたのである。

 さて、メルケル首相夫妻に見られる通り、ドイツでは夫婦別姓は当たり前であり、それだからと言って、ドイツの「家族」が崩壊している訳ではないこともここに言い添えておこう。伝統の無批判な継承は、むしろ、伝統を廃れさせるのである。

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