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東大受験のお釣りで飯を食っている

私は約20年前に地方公立高校から東大を受験した。東京大学のことである。

卒業した高校は地元の進学校であり、毎年数名の東大合格者を輩出していた。わたしは多少勉強ができる自負はあった中、入学直後の学力テストでTOP10にランクインし、どうやらこのまま勉強を続ければ東大に入れるくらいの学力がありそうだということが分かってしまったので、やることもない田舎で勉強に打ち込んだ。するとその後のテストにおいてもコンスタントに10番前後くらいの順位を取り続けることができた。スタートダッシュをきりいい波にのることの大切さはこの時に学んだ。なお学んだのみで現在できているということは全くない。

しかし多感な高校生であった。勉強が手につかなくなるようないろいろな出来事が起き、徐々に勉強時間は減っていった。表面的にはテストで結果を出せたりしていたようにも思うが、おそらくスタートダッシュのときに得たお釣りでしかなかったのだろう、周りがどんどん学力をつける中わたし自身は自分の実力不足に気づいていた。

私は理系であった。通常現役生は3年の夏までに英数を一定仕上げ、その後受験直前にかけて理科を中心に仕上げ&英数を維持することで、受験当日にピークを持っていく、というのがセオリーだったと記憶している。
そんな中私は、あろうことか3年の夏にはほとんど勉強に身を入れることができなかった。秋以降なんとか調子を取り戻し理科を頑張ったものの、理科は完成せず、英数も放置のため維持できず、まったく仕上がっていない状態で受験当日を迎えた。東大など受かりようもないことは私自身が一番わかっていたが、プライドが邪魔をしてランクを下げることができなかった。というかおそらく、ランクを下げて旧帝大等を受けていたところで合格することはできなかっただろう。現に私立は早稲田に落ちてしまった(慶応は不受験)。そしてもちろん東大にも落ちてしまい、気持ち新たに浪人時代を迎えることになった。

浪人時代は予備校に通った。この一年間は私の人生にとって最良の一年だったと言えるだろう。多感な10代ではあったので、高校時代同様にいろいろな悩みから勉強が手につかない時期も少しあったが、確固たる目標に向かって努力をしきったという自負があり、これが今でも自信に繋がっている。

受験もすべて終え、合格発表の前にも後期対策がてら予備校に通っていたのだが、いつものように校舎から駅に向かう夜、道中の階段を登りながら、ふと湧いてきた感情があった。

すばらしい一年間だった!

受験勉強は結果を伴うことが望ましい。合格のために受験勉強をしているのだから当たり前だ。ただし受験勉強の過程にも意味があるはずで、この価値も信じたい。

仮に合格発表の後でこのような感情が湧いていたらどうだろう。合格していれば、合格した「から」素晴らしい一年だった・不合格であれば、不合格だったもののプロセスとしての一年間が素晴らしかった、と意味づけられるだろうが、それは負け惜しみとしての感情であることを否定できない。

だから私にとって、「合格発表の前に」この感情が湧いてきたことは何よりもうれしかった。ああ私は、合格するかしないかに関係なく、この受験勉強という過程でした努力、得た人間関係、経験など、結果ではなくプロセスに対して心から素晴らしいものだったと感じられたのだ、と。

ちなみに結果もついてきて無事合格できた。合格発表を現地に見に行き、運動会による他受験生の胴上げが終わるのを待ってから、絶叫して知らん部員と抱擁し感情を爆発させた。東大生の半分は東大合格の日が人生最高の日だとかいう言説もあるようだが、とても良く分かる。あれを超える感動はなかなか得られるものではないと思う。

入学してからは周りの天才性に嫉妬しやる気を無くし、怠惰な学生生活を送った。しかし受験によって培われた思考力、忍耐力等に支えられ、社会人になってから意外と活躍できているように思う。またこの経験からだろうか、私は他者からとても謙虚な人だと思われているようにも思う(思われてないかも)。

東大受験のお釣りでわたしは飯を食っています。

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