厨二病の箱庭

先日取り上げた、藤田直哉によるろくでもない『ペルソナ 5』レビューだが、あれは『ペルソナ5』を賞賛しながら、結果的には貶めてしまっている。つまらない人間がつまらない褒め方をすれば、褒められたものもつまらなく見えるものだ。この状況を放置しておくのはあまり気持ちよくないので、藤田直哉の批評の言葉を借りて、藤田が行った方向の裏側から、このゲームを褒めてみよう。

まず前提として、藤田の批評を振り返っておこう。藤田はこのゲームを社会批判の精神に秀でたものとして褒め称える。曰く「同時代におけるポスト・トゥルース状況に対峙する」ゲームであり、「日本論でもある」らしい。なぜならこのゲームにおいては

「不正を見ても見逃したり、声を出さなかったりする、「空気」を大事にして、「調和」を大事にし、個よりも集団、全体の価値を重視する権威主義的な大衆こそが、批判されている」

からとのことである。そしてこの作品が「支持を得るための情報操作、世論操作、ネット工作そのもの」をクローズアップして取り上げていることに着目し、これは「内閣調査室を描いた藤井道人監督の映画『新聞記者』でも描かれた、非常に現代的であり政治的にナイーブなモチーフ」であると指摘し、駄作映画と並べることでこの作品に泥を塗っている。

そして藤田は褒めちぎる一方ではなく、このゲームの欠点にも、論の最後の方で補足的に触れている。

「体制やシステムや官僚などをなんでもかんでも悪く描くというのはまたひとつのステレオタイプであり、それ自体がイデオロギーとして機能する。現実や実態と関係していない「物語」に過ぎない。そういった批判はありえると思う」

これは正しい指摘である。コープ活動(キャラクターたちと交友を深める、サブストーリーのようなもの)においては、人間関係を深掘りすることで、そうした一面的な視点から逃れようという姿勢も見えるのだが、大筋としてはこの傾向は否みがたい。これはこのゲームにおける最大級の欠点であり、このゲームを嫌う人が特に問題視する部分であろう。賞賛を書き連ねながらも、こうした点への言及も忘れない藤田は、さすが腐っても批評家とは言えるだろうか。しかし藤田はここで、ゲームの弱点を晒すと同時に、自らの批評の弱点まで晒してしまっているのだ。このゲームの社会批判的メッセージを評価する藤田だが、一面的な視点から繰り出される批判に、一体どれほどの価値があるものか。つまり『ペルソナ5』を藤田はその程度のものとして褒めているにすぎないのである。

以上に引いた藤田の論点は、事実認識として誤っているわけではない。このゲームは社会批判的な要素を色濃く持ち、その点では『新聞記者』のような映画と共通するものがあると言えなくもない。
しかしにもかかわらず、藤田は『ペルソナ5』というゲームの特質を捉え損なっている。絶賛されているにもかかわらず、この批評を読んで実際に『ペルソナ5』で遊びたくなる人は少ないのではないか。ただ「そういうもの」「教養」として受け取るだけで終わるだろう。

このゲームを三流批評家の賛辞から救い出すには、どうすればいいか。ここで導入すべきキーワードは「厨二病」だ。

定義の不明瞭さは承知の上で、それでもこの言葉を使うのが最も適切だと考える。必ずしも肯定的な響きだけではない言葉だが、もちろん悪く言いたいわけではない。このゲームのファンでも半ば自嘲的に「厨二病」という言葉を使う人は多い様に見受けられる。自分自身に対してもどこか醒めていたいという思いはまさに「厨二病」的な精神ではないか。

このゲームの社会批判も「厨二病」的に捉えるべきものである。大人だろうが「厨二」だろうが社会批判はするものだが、批判する側、される側の立ち位置が違う。そこを問題にしたいのだ。藤田が引き合いに出した『新聞記者』と比較してみるとよい。あれは明白に、当時の安倍晋三政権を批判した作品である。一方『ペルソナ5』の悪玉政治家、獅童正義は安倍晋三とは似ても似つかない。『ペルソナ5』は時代と絶妙な距離感をとっている。


獅童正義

見た目でいえば、まず目につくのはスキンヘッドである。安倍晋三には髪が生えていた。サングラスもしていなかった。獅童の声優は池田秀一であり、威厳溢れる美声で民衆を虜にする様は、明らかにシャアを意識しての描写である。
人物像に関しても、ネタバレを避けたいので深入りはしないが、政治家としての来歴も安倍晋三のようなサラブレッドというよりは、権力欲に塗れた成り上がりである。成り上がりであるのを売りにしていることや、敵対者への辛辣な口調の批判は、むしろ橋下徹を思わせるものもあり、サングラスは橋下が弁護士時代に着用していたものにどことなく似ているが、しかし橋下徹にも髪はある。また政治家になる前の獅童は弁護士ではなく官僚だった。
まとめると、獅童正義は実在する特定の個人の写し絵となってしまうのを巧妙に回避し、フィクションにおける一個の独立したキャラクターとして立っている。

しかしもちろん藤田がやるように、このゲームから現在の日本の政治への批判を読み取ることは、決して無理のある解釈ではない。けれども「そう読める」ということにばかりのめり込み、「どう描かれているか」ということを考慮しない批評は、作品の全的な生命力に触れ得ない。

「厨二病」的な社会批判は現実社会の生臭さを感じさせてはならない。超歴史的なものでなくてはならない。安倍晋三が、自民党が如何に強大な権力者であろうと、いずれは没落するものだ。たとえば仮に立憲民主党やれいわ新撰組が政権を握る時代がくれば、『新聞記者』のような現実に密着した反体制的作品は、途端に体制側の作品へとひっくり返りかねない。「厨二病」的感性は潔癖であり、そうした事態を拒もうとする。『ペルソナ 5』が抗うのは歴史上の特定の権力ではなく、永遠の権力であり、彼我の関係性は決してひっくり返らない。
「厨二病」的精神は、人工的で清潔な世界を作り出して、そこに閉じこもり、そこから永遠の権力を批判する。

保守党のサッチャー政権を激しく非難していたが、労働党のブレア首相とは握手を交わすロックスター……

「厨二病」的人間にとって、これほど忌むべき事態はなく、この最悪の未来へ繋がりかねない芽は摘んでおかねばならない。永遠の楽園が崩壊の可能性を孕むことは許されないのだ。

だからこそ獅童は人間味のある個人ではなく、「傲慢な権力者」という役割を演じるものとして、立ちはだからなければならなかったのだ。藤田も批判した、このゲームのあまりに安直で、ステレオタイプな権力者像については、このような事情を考慮しておく必要があろう。

「厨二病」的精神に対しては、それは現実の問題から目を逸らした、お気楽で、自分だけの狭い世界に閉じこもる、子供じみた精神であるという批判もあり得るだろう。残念ながら正論であり、ある程度は甘受せねばならない。『新聞記者』のような、現実に密着した、生臭い社会派作品にもそれ独自の意義はあり、歴史上には、その手の作品にも傑作はある。しかし『ペルソナ5』はそれとはジャンルが違うのであって、これをただ社会批判の作品として見れば、半端な出来のものでしかない。

自分だけの人工的な世界に閉じこもることは『ペルソナ』の専売特許ではない。文学でいえば、たとえばユイスマンスの『さかしま』も、閉じこもることの気だるげな快楽を描いている。
『さかしま』といえば、人工の楽園を築くべく、主人公デ・ゼッサントは書物や絵画を収集しているが、こうした偏執的な収集欲は『ペルソナ』というゲームにおいても重要なものだ。

『ペルソナ』シリーズにおけるモンスターは「ペルソナ」と呼ばれ、古今東西の神話、宗教、伝説から引用されている。アルセーヌ・ルパンからオニ(鬼)、ホウオウ(鳳凰)、シヴァ神、ディオニュソス、ルシファーに至るまで、主人公は仮面(ペルソナ)として所有することができる。涜神的でさえある、恐るべき収集欲である。「ペルソナ全書」を確認すれば、全体の何%まで入手したかを見ることができ、100%を目指すのは所謂やり込み要素の一つである。
もちろんこうしたやり込み要素は『ペルソナ』に限らず、様々な作品、特にRPGのジャンルにはよくあるが、『ペルソナ』の場合、集めるのは現実世界で信じられてきた神々や怪物、英雄であって、コンプリート後のペルソナ全書はビッグネームがずらりと並び、壮観である。現実の歴史で人々を衝き動かしてきた、古今東西の神々を、悪魔を、怪物を、主人公という一つの精神に宿してしまおうとする、極めて壮大な試みである。プレイヤーの収集する腕は永遠の世界から現実の世界へと伸び、バーチャルとリアルの境界は揺さぶられる。

以上のように、『ペルソナ5』というゲームは箱庭のように狭く自己完結しているが、同時に壮大なものでもある。このエネルギーの激しさが読者に少しでも伝われば、書いた甲斐がある。



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