パロディーボール
野球において、打たれにくい、よい変化球とは、途中までストレートと同じ軌道で飛び、突然ストンと変化するものだ。
僕はここで、野口武久詩人投手の、清々しいまでの直球勝負の詩の軌道を借り、途中でそこから大きく逸れていくことで、相手打者を翻弄してやろうと思う。
変化球を活かすのは、良いストレートとの緩急の差である。パロディーとは、風刺とは、そのターゲットが大きな存在であればあるほど、力強さを増すものだ。誰も知らない、知る価値もない人や作品を揶揄したところで何が楽しい。
まず、前提となるストレートの球筋を目に焼き付けてもらいたい。
キャッチボール 野口武久
父親と少年が
キャッチボールをしている
雨のあがった休日
あかまんまが咲いている道
父親のミットに捕球音が響く
身体の芯が熱くなるまで投げ込め
咽喉につかえたものを吐き出すように
真っ直ぐ投げろ
込み上げる優しい涙は
胸から放ればいい
どんな球でも
父親は君の球を受けてくれるだろう
変化球は覚えるな
器用な生き方は
いつかきっと人を悲しくさせるから
あかまんまの咲く小道
父親と少年の
キャッチボールは響く
あと何年
この親子のキャッチボールは続くのか
なんどでも
なんどでも父親を弾きかえすまで
強く心に納得する響きを投げろ
道行く人の心に響く球を投げろ
何と力強いまっすぐだろうか。「変化球は覚えるな/器用な生き方は/いつかきっと人を悲しくさせるから」という一節は、有無を言わせぬ説得力で僕らの胸元を抉り、僕らを恥じ入らせる。僕らはこれまで生きてきた中で何度も、やむなく変化球を投げてきたからだ。そして実際の野球においても変化球はもはや必須であり、どんなに速いストレートを放るピッチャーでも、変化球を織り交ぜなければいつか相手バッターの目が慣れて、攻略されてしまう。つまり変化球を覚えることを禁止するのは、野球においても、人生においても、勝負をはなから諦めて、敗者として生きよと命じることにほとんど等しい。しかしその敗北を思わず受け入れてしまいかねないほどに、この詩の球筋は美しい。何度も繰り返し、声に出して読む価値のある詩のひとつである。読者の胸にこの軌道が刻まれたところで僕は振りかぶって、第二球を投げる。
パロディーボール 僕の生命線
どんな球でも
父親は君の球を受けてくれるだろう
変化球も【投げてゆけ】
どんな球でも 父親は
君の球を受けてくれると
言ったろう ときに
すっぽ抜けたり 曲がりすぎたり
した球を 捕り損ねることもあるだろう
転がっていったボールを 別の親子の父親が
投げ返してくれるとき 礼を言う父親の背中の
曲がり 君もそれを覚えていくから
今は見よう見まねでいい
決してやってはいけないことは
父親が
捕れる範囲の球だけを投げようとして
可能性を狭めることだ
咽喉のつかえが力任せに
引っ張り出そうとするだけでは
取れないときに
捻るように逆巻くように
回転させれば嘘のようにストンと落ちる
ことがあるのに
直球だけで勝負しろ なんて言うのは
野球をろくに見たことも
やったこともない人間だ
七色の変化球
という決まり文句が教えるように
変化球は虹であるから
変化球は美しい
変化球は虹であるから
変化球は美しい
変化球は虹であるから
変化球は直球よりも詩に近い
ところにいる
変化球は命名する
切れ味鋭い カミソリシュート
『スタートレック』のバルカン人の
挨拶の形で握る バルカンチェンジ
土地の匂いがする 宜野座カーブ
変化球は命名するから美しい
変化球は美しいから虹である
変化球は虹であるから
変化球は涙である
変化球は涙であるからこみあげてきて
変化球は変化する
まっすぐ飛んできたはずの
ボールが突然曲がる衝撃
空振り 打者も思わず苦笑い
「道ゆく人の心に響く球を投げ」
るだなんて 考えなくてかまわない
相手選手の チームメイトの心の響きが
観客席にも遅れて響く
そういうものだから
あかまんまの咲く道も
雨の降っていた昨日のことも
近い未来も遠い未来も
今の君には見えていない
誰に向かって投げているのか
そのことだけを忘れていない
ここにポエジーがあるとしても、それはノビのある直球からの落差が読者を幻惑したものにすぎない。
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