藤田直哉をゲーム批評家とは呼ばない

https://jp.ign.com/sf-game-history/44678/opinion/sf295
藤田直哉という、ゲーム批評家を名乗る大学教授が書いたペルソナ 5評だが、読まなくても問題はない。

藤田はメインストーリーをさっと紹介し、それが批評家御用達の社会批判のタームと如何に強く関連づけられるかを述べ、称賛している。
藤田の批評はストーリーへの言及にほとんど終始しており、ゲームプレイとしてどのような経験なのかということは、この批評からは全く読み取れないと言っていい。

ゲームは漫画や小説、映画などと違い、インタラクティブなメディアであって、一方的にストーリーを提示してくるだけのメディアとは全く異なる経験を提供するものである。そして藤田がやるようにゲームからストーリーラインだけを取り出してくると、小説や漫画の名作に比して薄味な印象を与えかねない。ペルソナ 5はそうした危険性の特に高い作品だろう。現に前作ペルソナ4と比べても、推理モノとして一本の分かりやすい筋があった4はアニメ版も人気を博したが、5のアニメは4ほどの成功を収めることはできなかった。

藤田曰く、ペルソナ 5は「そのメディア(引用者註、ゲーム)を用いて、権威主義的に何かを委ねるのではなく、自分の頭で考えて行動する必要があることを体験させる作品であり、この作品自体が「大衆」たちへの覚醒の呼びかけそのものなのである」のだが、肝心のその「体験」の内実を藤田は考えていない。ゲーム批評とは本来そこを考えるべきものであるから、藤田の批評はゲーム批評ではなく、ゲーム批評の始まる寸前のところで終わっている、ストーリー批評である。

ではゲーム批評としてペルソナ 5を取り上げるには、どのようにすればよいのか。このゲームを考える際に外せない特徴をとりあえず二つ挙げておく。ストーリー批評ではなくゲーム批評を志す人たちの参考になれば幸いである。

まず、ギャルゲーとRPGの融合という、独自のジャンル性である。現実世界のギャルゲーパートで様々な人々と交流を深めることによって、RPGパートで強い魔物を手に入れることができるようになったり、攻略が楽になるスキルが手に入ったりする。この二つの世界の往復が、ペルソナ 5というゲームの経験を独自のものにしている。

二つ目はいわゆるカレンダーシステムであり、これも忘れてはならない。ペルソナ5のストーリーはカレンダーの日付けに則って進行し、重要なイベントが何月の何日に発生するか、物語がいつの日に始まり、いつの日がエンディングか、必ず決まっている。1日あたりの自由行動可能回数は昼と夜の2回であり、誰かと時間を過ごしたり、遊びや勉強をすれば時間が経過する。そのためゲームプレイ一周あたりの自由行動の回数も決まっている。窮屈で不便なシステムではあるが、プレイヤーの時間の感覚を縛り付けることで、ゲームプレイに臨場感を与えている。

ペルソナ 5というゲームはこれほど特徴的なゲームでありながら、それには少しも触れず、やれ「ポスト・トゥルース」だの、やれ「全体の価値を重視する権威主義的な大衆」だの、「内閣調査室を描いた藤井道人監督の映画『新聞記者』」に通ずるモチーフだの、何がゲーム批評かという気にさせる。

これがたとえば詩の批評であれば、詩の散文的内容への言及に終始し、その形式や用語を考慮しない批評は、ふつう相手にされない。ゲーム批評という、まだあまり成熟していない分野だからこそ、この程度のものが通用していると思われる。

ゲームをやらない読者に対しては、このような批評が受けるであろうことは想像に難くない。そうした手合いからしてみれば、藤田は自分たちのよく知っている言葉で、自分たちのよく知らないゲームというものを紹介してくれる。要するに媚びである。その過程でゲームの楽しさは打ち捨てられて死ぬ。

読者は「教養」としてゲームを知り、実際にゲームをプレイすることは恐らくない。ここでいう「教養」とは、もちろんゲームとは全く関係がないものだし、第一級の詩や小説ともそれほど関係はないものだ。

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