作者の人格と作品は別なのか

日本史学者の呉座勇一先生が、Twitterの非公開アカウントで英文学者の北村紗衣先生への誹謗中傷を繰り返していたことが発覚し、大きなバッシングを受け、ついには考証を担当していた来年度の大河ドラマの降板を自ら申し入れるまでに発展した。
このように、問題のある言動をした人物を、その職場からも追放しようとする動きは、近年アメリカで盛んになっているが、日本でもそうした運動を目にする機会が増えてきた。
呉座先生が追放されることを望んでいた人たちは、彼のように卑劣で差別的な人間はNHKの大河ドラマの監修のような公的な仕事には相応しくないと、言うまでもなく考えている。
一方それとは逆に、職務に関係のない場所での言動が不味かったからといって、仕事まで奪ってしまうのは間違っていると考える人もいる。
ところで後者のような人たちがしばしば用いる文句に「作者の人格と作品とは別のもの」「作品に罪はない」といったものがある。
ぼくはそういう文句が、本当に正しいのか疑っている。作品において、作品それ自体と、それを生み出した人格をはっきりと区分することができるだろうかと思う。
しかし同時に、呉座先生の降板は間違っているともぼくは考えている。
詩人として、詩の話をするなら、たとえばエズラ・パウンドの『キャントーズ』を楽しむには、彼が傾倒したファシズムに我々も傾倒し、彼が抱いたユダヤ人に対する差別的な考え方を我々も共有しなければならないのだろうか?
そんなことがあるわけはない。詩は政治や社会とは別の次元のものである。詩が政治を題材として扱わないということでは無論ない。それは先ほど例に挙げた『キャントーズ』を読むまでもないだろう。そうではなく、目を背けたくなるような不味い考え方が作品内で表白されていても、我々はそれに同意することなく、詩に感動することができるということだ。そうした問題を詩は超えるのだ。これは詩に限らないだろう。素行不良なミュージシャンの話は枚挙にいとまがない。
詩を社会や政治の領域に引き下ろすかのような言説(この言い方が不満なら引き上げると言ってもいい)は、詩の愛好家や文学者の間でも広く行われているが、詩人として、そうした考えをぼくは拒む。

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