『VIVANT』事後考察(3)
言うまでもなく、このドラマはフィクションであり、壮大なエンターテインメントとして楽しめばよいわけです。したがって、ここから書くことは蛇足かもしれません。ただ、私としては、このドラマで扱っている「テロ」や「別班」といった、違法、脱法ないし超法規的な存在について、その行動の目的との関係で、どう評価すべきなのか考えずにはいられません。
「テント」はテロリストなのか?
ドラマでは「テント」をテロリストと呼んでいますが、厳密にはテロリストかどうか疑わしいところがあります。
「テロ」については、数多くの国際条約が存在しますが、そのいずれにおいても「テロ」という言葉については明確に定義されていません。国連の枠組みをはじめ、「テロ」を定義しようという試みは随分と行われてきましたが、これまでのところ合意に至ることができていません。
なので、客観的かどうかはともかく、日本の法令による定義をベースにして考えてみましょう。日本の特定秘密保護法では、テロを「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう。」と規定しています。
「テント」は、孤児救済を目的に、その資金を稼ぐために、爆破や破壊工作を請け負ってきたわけです。孤児救済が一定の主義主張であるとは言えますが、テント自身はその考えを他者に強要したり社会に不安や恐怖を与えることを目的に活動していたわけではないので、厳密にはテロリストではないと思います。ただ、この定義に該当する行為を行うテロ組織の依頼を受けて、実働していたという意味において、テロ活動の下請け組織であったと言わざるをえないでしょう。
「テント」をテロリストと呼ぶか否かにかかわらず、「テント」が爆破や破壊工作を行い、多くの人を死なせてきたことは事実です。なるべく犠牲者を減らそうという努力をしたとしても、違法行為であり、犯罪であることに変わりありません。孤児救済という目的のため、このような行為を行うことは許されるのでしょうか。
違法な手段が必要な世の中?
この世の中に不当なことが数多くあることは事実で、普通の手段では正義を実現したり回復したりすることがなかなかできない場合があることも事実です。
昨年、安倍元総理が選挙演説中に殺害されました。これは決して許されることではありませんが、この事件がきっかけになって統一教会の問題がクローズアップされ、国会・政府とも真剣に取り組み、解散命令の可能性も出てきています。
あの事件がなければ、この統一教会の問題は解決に向かったでしょうか?統一教会の被害を受けている人たちは、どのように救われたでしょうか? 他にやり方があった? 本当でしょうか?
水俣病患者や原爆被爆者の一部の人たちは、不当な支給基準のために補償を受けられず、その権利実現のため、何十年も裁判で争ってきました。ようやく認められた人もいますが、そこまで人生を犠牲にしなければ、正義は実現されない。そういう現実があります(これらの点については、国を導いている国会議員、関連する政府関係者に猛省を促したいところです)。
世界では救済されない孤児が多く、また親がいても病気や貧困で命を落とす子供がたくさんいます。この現状は一朝一夕で変わるものではありません。もし目の前の子供を助けたいと思ったら、思い切った行動に出なければならないこともあるでしょう。そのこと自体は理解できないわけではありません。
しかし、なのです。
「別班」の活動は許されるのか?
『VIVANT』でも、「テント」のような活動を決して容認しているわけではありません。「別班」乃木が乗り込んで行って、軌道修正させ、最終的に解体、ベキに投降させます。ただ、この「別班」という組織のあり方が、さらに私たちを悩ませます。
公安野崎が、日本でオリンピックやワールドカップなど大きなイベントがあっても、「本格的な国際テロ」が起きていないのは、「別班」が秘かに活動しているからだとほのめかす場面があります。これによって、「別班」は表に出てこない影のヒーローという印象になりました。(本当は、公安の手柄によってテロが未然に防がれているということもあると思うのですが、そこは言わないところがカッコいいです。)
しかし、(この場面で薫が言うとおり)日本は民主主義国家であり、法治国家です。あらゆる公的機関は法の下に存在し、何らかの形で国民のチェックを受けなければなりません。
もちろん、事前に情報を国民に開示して判断を受けることが適切でない場合もあります。国民やその代表たる国会に情報を開示するということは、敵国や交渉相手国に手の内を明かすことにもなり、そのことによりかえって国民の安全や利益を害することがあるからです。また、緊急事態対応のように、事前に国民的議論を尽くしていたら、手遅れになる場合もあります。
しかし、そのような場合も必ず法に基づいて活動し、事後に民主的チェックを受けなければなりません。そうでなければ、一体誰が、どのような基準で組織を運営するのか、誰が誰に対して責任をとるのかがあいまいになり、必ずやその組織は腐敗するか、独善的になっていきます。
その意味において、「別班」は違法な組織、控えめに言って脱法的ないし超法規的組織であり、危険な存在であると言わざるをえません。
「テント」と「別班」は何が違うのか?
「テント」は当初テロリストだと思われていましたが、ドラマの中で、孤児救済を目的とした資金集めのためにテロ活動の下請けをしていたことがわかります。また、「別班」は、日本をテロなどの危害から守るために超法規的に活動する組織であることが描かれます。
両者とも、理念・目的は正しく、手段が違法ということになります。そういう意味で、どちらも「同じ穴の狢(むじな)ではないか」と考えざるをえません。
手段の違法の程度が違いますか?
もちろん、それはあるでしょう。「テント」は、犠牲者をなるべく少なくしようと努めていましたが、それでも多くの人を死なせました。いくら孤児を救っても、犠牲になって死んで行った人のことは、どう考えるのでしょう。
また、随所に横領のエピソードが出てくるように、このような組織は腐敗します。首領であるベキの崇高な考えによって、どうにか組織は保たれてきましたが、ベキ自身にも人間としての弱さはあるはずですし、独善的になっていく危険は大きいです。
「テント」はもともとは、周囲の村から依頼を受けて護衛の仕事を請け負い、その代価をもとに孤児の救済をしていました。それが、徐々に規模を大きくする必要に駆られ、テロの下請けをするようになり、道を踏み外してしまいました。最終回の復讐も、孤児救済とは全く関係のない、ベキ個人の欲求によるものです。
しかし、「別班」も人を殺します。乃木は、テントの一味であった山本を自殺に見せかけて殺し、テント幹部アリ(とその家族)の護衛をも射殺します(さらに最終回で3人殺します(?))。正直、このあたりの人は本当に殺す必要ある? と思ってしまいます。
山本によるハッカー太田の扱いは、山本が相当腐っていることを伺わせますが、「別班」が死刑判決を下す権限があるのですか。「命に従いお前を排除する」って、誰の命令なのですか。それは正当な根拠のある命令なのですか? 誰かの独善による判断ではないでしょうか。アリの護衛にいたっては、本当に下っ端で、死ななければならないほどのワルなのでしょうか? もしかしたら、孤児救済という理念に共感して、ごく一部を手伝っていただけかもしれません。
民意のチェックを受けず、法に従わない。そういう組織は、必ず道を踏み外すのです。
公安の名誉回復を
一般的には、公安警察こそが、何か怖い存在という印象があると思います。それが、このドラマではまだ公安の方が安心する存在になっています。
ドラマの中盤、公安が裁判所の令状などにしばられて思うように行動できず、いら立つ場面もありました。そんなこともあり、『VIVANT』では、全体として公安が「別班」にやられっぱなしという雰囲気でした。しかし、公安は、そのように法のタガがはめられていることで、独善に陥ることなく、「社会的正義」を目指すことができるのだと、むしろちょっと安心する思いで観ていました。
最終回、「別班」に命を救われた元公安幹部の上原官房副長官(橋爪功)が、「別班」を「シビリアン・コントロールが効かない」として、なおも批判します。観る側としては、当の「別班」によって命を救われた人間が何を言うかという印象を持ちます。
「シビリアン・コントロール」と「民意によるチェック」は必ずしも同じものではありませんが、この場面はシビリアン・コントロールを軽視するようでもあり、それによって「別班」を正当化しすぎているようで、個人的にはひっかかりました。
もちろん、テレビドラマはエンターテイメントとして楽しめばよいのです。「別班」が、騙し、殺し、脅迫し、手っ取り早く正義(と思われるもの)を実現していく様には、胸がすく思いがします。
ですが、現実的なバランス感覚に裏打ちされているか否かで、観る者の心に迫る力が違ってきます。続編では、このあたりの「別班」の存在の問題点を深堀りするとともに、法に基づいて活動する「公安」の名誉回復をお願いしたいと思います。
野崎は言います。
「最後の最後にケリをつけるのは、我々公安ですよ。」
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