見出し画像

第4章 日本人の生きづらさの本質(6)

6.ムラ的共同体

第2章ものがたり方程式では、共同体を「それを維持する意思を持った人々の集まり」と定義したのですが、さらに細分化すると共同体は特定の目的の実現が共同体の成立と存続の原因となっている「合目的型共同体」と、存続すること自体が共同体の目的となっている「血統型共同体」の2つに分かれます。

「合目的型共同体」の典型は、会社、政党、プロスポーツのチームなどです。いずれも誰かが発起人、設立者となって、共同体としての人格をもって事業を行い、その利益を構成員に配分し共有することを目的としています。そして、その目的が実現できなくなった時は解散します。また構成員の評価や報酬は目的実現への貢献度に比例し、場合によって共同体は役に立たない構成員を追放し、逆に犠牲に見合う報酬が得られないと感じる構成員は、共同体を脱退し他の共同体に移動するのが通常です。

会社組織では、売上や利益といった数値や、商品・サービスの改良やイノベーションといった、貢献を裏付ける目に見えるものがあります。貢献の評価は相対的であり、それが報酬や組織内でのポジションや権力に反映されます。会社組織の間でトレードも行われます。つまり「合目的型共同体」では、構成員の価値は「使用価値」「交換価値」で決まり、価値は数値や職位などで客観的に測られるのです。

一方、「血統型共同体」の典型は家族や親族ですが、学校や会社の中の「仲良しグループ」や地域の自然発生的なコミュニティーもこれにあてはまります。構成員が亡くなったり、遠方に引っ越すなど、物理的に存在しなくならない限り、共同体は残った人々で維持され続けます。

存続すること自体が共同体の目的ですが、「合目的型共同体」と同じように目的に対する貢献度に対応した構成員の差別的扱いはありえます。存続させるべき家族や「仲良しクラブ」の結束を強め、協調し協力し合って共同体全体の「一緒にいることで得られる満足度や幸福感」を高めた人は評価されます。逆に、共同体に「迷惑をかける」「結束に波風を立てる」「不和や対立を持ち込む」人は低い評価が下され、場合によっては、「事実上の追放」である「いじめ」や無視、放置(いわゆる「村八分」)といった仕打ちを受けます。

ここでは構成員の価値を客観的にはかる指標がありません。共同体全体の満足度を高めたかどうか、波風を立てたかどうかは、「その共同体にだけ通用する人間関係、習慣、大勢、空気といったようなもの」で決まるのです。

このように、共同体が求める「望ましさ」に客観的指標が無く、「その共同体にだけ通用する人間関係、習慣、大勢、空気といったようなもの」で決まる場合、そのような共同体を「ムラ」と呼ぼうと思います。日本では、「合目的型共同体」である会社や政党の中にも、しばしば「血統型共同体」の性質をもつ「ムラ」が生まれるので、家族や仲良しグループなどの「血統型共同体」と区別して、「ムラ」という概念を使うのです。

本来「合目的型共同体」であるはずの会社組織などに、「ムラ」が生まれるのは、日本ではむしろ当たり前の現象ですよね。

東芝、三菱自動車、三菱電機などの大企業の不祥事は、組織の上層部に「ムラ」が生まれたことに原因があります。本来「合目的型共同体」である会社のステークホルダーである、消費者、株主、社員といった人々を含めた利益の最大化、公平な利益配分をすべきところ、「ムラ」の存続を最大の目的に意思決定を行ったため、不正行為が十年以上も続き、結果的に会社組織に大損害を与えることになったのです。

太平洋戦争中の軍事戦略の最高意思決定機関であるはずの大本営も、陸軍と海軍という「ムラ」に分かれていました。そして陸軍と海軍はそれぞれ、玉砕派と早期終戦派、枢軸国派と国際協調派などのさらに小さい「ムラ」に分かれていました。それぞれの「ムラ」は、国全体の利益すなわち国民の利益を考えることなく、自分たちの「ムラ」の存続を目的として行動し、数値や具体的成果という客観的指標ではなく、「ムラ」の「空気」によって意思決定を行ない、300万人に上る人命を犠牲にした挙句、戦争に敗北したのでした。

「合目的型共同体」である会社や政党の中にも、「ムラ」が生まれるのはなぜでしょう?

そこには複数の原因があると考えられます。

第1に、これまで見てきたように、日本人は、自己愛(望ましさ・居場所)が満たされないことによって傷つくことを何より恐れるので、共同体の中でその支配的価値観から「浮かないように」、「空気に同調する」ことを行動原理にするということです。

もし東芝の役員や三菱電機の工場長や海軍軍令部の将官の誰かが、「内なる法」を持ち、「外なる法」のコンプライアンスを主張し、戦争の目的地と現在地を照らし合わせて、合理的な道筋を描くことを組織全体に働きかけていたならば、不正行為はもっと早く終わっていたでしょうし、無駄な人命の損失ももっと少なかったでしょう。

しかし、彼らは、「内なる法」を主張することで、「ムラ」の空気に反し共同体の中で「浮いてしまう」ことを何よりも恐れたのでした。会社や国の運命よりも自己愛を優先したのです。「ムラ」の中では、「内なる法」が「外なる法」に浸食されて、簡単に融解してしまうのです。

第2に、「合目的型共同体」である会社や政党が、実は合目的ではないのかもしれません。合目的であるということは、論理と実証が行動を支配するということです。戦争とは、国家の独立と自由と繁栄という国益が、他国の行動によって侵害されようとしているときに、その侵害を阻止したり取り除くために行われる、外交と連動した手段の一つにすぎません。日露戦争は確かにそのような意味での戦争でした。しかし、「満蒙権益」(日露戦争で得た中国東北地域での日本の行動の自由を表します)ということばが使われるようになった1930年前後から、陸軍の中で国益よりも満蒙権益が優先されるようになり、やがて満蒙権益を守るための戦争が、国益そのもののように、つまり手段が目的化するようになったのです。

このような目的と手段が混同される事例は、日本社会のいたるところで見られます。

「カイシャ」は、働くものにとって生計を立て自己実現をはかる一つの手段に過ぎないはずですが、日本ではつい最近まで、男にとって「居場所」であるべき唯一の共同体、すなわち人生そのものでした。

中学高校におけるスポーツや音楽は、健全な肉体や豊かな情操を育てる手段に過ぎないはずですが、甲子園に出場し優勝することを目的とする野球部や、音楽コンクールで優勝することを目的とする合唱部や吹奏楽部では、手段が目的と入れ替わります。それに合わせて、体罰が公然と行われ、指導者は神のように祭り上げられます。

COVID19がインフルエンザと同等の5類に分類され、事実上のコロナ収束宣言が出されたにも関わらず、その後半年近くにわたって大多数の人々が、感染の恐れのない野外やスーパーマーケットの中でもマスクを使い続けていたという現象は、マスクという手段が目的になってしまったからだと言えます。別の見方をすれば、彼らは「周りがマスクをしている中で、自分だけ外すと浮いてしまう」という具合に、互いにけん制し合い、互いに同調圧力を掛け合っていたと言えるのですが、結局、「空気の支配」と「目的と手段の混同」は、「選択し、決断し、責任を取る自我」の不在という意味では、同じ矛の両面なのです。(続く)

第4章の要約


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?