見出し画像

なににとらわれているのか?ーー「今年の問い」2022を発表します!(前半)

問いと対話の可能性を探求するユニットTOIでは、2022年のはじめにみなさんから集めた書き初めならぬ「#問い初め」をもとに、今年1年がどんな年になるかを占う「今年の問い」を考える試みを実施しました。どんな問いが集まり、何が見えてきたのか?TOIのタガイがその過程と合わせてご紹介します。

※1本では収まりませんでしたので前後半の2本立てでお届けします!

「今年の問い」とは

「『今年の漢字』があるなら『今年の問い』があったっていいじゃないか。」そんな2021年の年末に浮かんだ思いつきをきっかけに、2022年の年始に書き初めならぬ「#問い初め」を集める企画を実施しました。

「#問い初め」はSNSに加えて1日限定で実施したオフラインイベントでも参加者から集めました。

こうして、全部で22個の問いが集まりました。

・貢献から何が生まれるか?
・「自覚」をすることで何か変わるものなのかな?
・人生においての勝ち負けって何?
・勝つと嬉しいのはなぜ?「あり方」とはなにか?
・BeingとDoingの違いはなにか?どうしたら幸せに生きられるのか?
・家族とはどういう存在で、自分はどう振る舞うのが良いか?
・なぜ働くのか?おせっかいと親切の境界は?
・健康と不健康の最適なバランスは?
・人生の彩りの要素は何か?
・他人の気持ちはどこまで考えていいものなのか?
・自分の本音は何なのか?
・自分のことばをつむぎたい自分による「自分」をあてにしすぎでは…?
・私にとっての繋陸砂州(トンボロ)とは何か?
・ここち良いことなんですか?
・日本人の本当の幸福!
・マスクは人々のコミュニケーションにどの程度障がいとなっているか?マスクはいつはずれるのか?
・どうしてもっと頑張れないのか?
・自分自身は消耗品なのか?あるいはなにかを生産できるのか?

今年の問い委員会2022

これらの問いを分析し「今年の問い」を決めるべく、問いの専門家を招いた委員会を結成しました。

記念すべき第1回「今年の問い」委員会のみなさん

みなさんにはそれぞれ「私と問いの関係」というテーマで自己紹介をしていただきました。みなさんがそれぞれどんなお話をされたか、簡単にご紹介します。

加来 幸樹(かく こうき)さん

普段企業や個人の理念を対話しながらつくっている加来さんは「自分の言葉で語ってもらう」ことを大事にしていて、相手の言葉を引き出す上で「この仕事は問いなくしては成立しない」と仰ってました。

やまうちさん

新渡戸文化小学校で図工の先生をしながら、先生という肩書を超えて広く創造的な場づくりをしているやまうちさんは、普段から「子どもたちの創造性を高めるために問いを投げかけている」ということでした。

でっちさん

人々が「自分としてどう生きていきたいか?」探求する支援を対話や内省の機会を通して提供しているでっちさんは、「問いとは日常や非日常の中で生きているうちに常に発生してくるもの」だと捉えていました。

小野さん

普段企業で人材開発に携わりながら、地域開発のワークショップをしている小野さんにとって、「問いとはつかず離れずかたわらにいる存在」だとということでした。

ちょうなんさん

オンライン1on1サービスの新規事業開発やワークショップのファシリテーターをしているちょうなんさんは「新規事業は問いのかたまりで普段は問いのことばかりを考えている」と仰っていました。

タガイ

最後に、本noteを書いているTOIのタガイと問いの関係ですが、数年前に初めて参加した哲学対話をきっかけに問いと対話の面白さに魅了され、現在につながる「TOIの活動が生まれるきっかけになった存在」だと言えます。

今年の問いを考える会

こうした、様々な方面で問いに携わっているみなさんとオンライン上で一堂に会し、集まった問いから「今年の問い」を考える会を開催しました。
まずはじめに、私タガイが集まった問いを分類してみたものを共有するところからスタートします。

集めた問いに共通する要素として「自分に対する問い」(左)と「他者に対する問い」(右)、そして問い方として「Why」「What」「How」で分類ができそうだと考えました。
実際に集まった問いを分類してみたのがこちらです。

この分類から私は「ありのままの自分」を求める問いや「他者とうまく関わりたい」という思いが見えてきたのですが、ここまでの考察をスタート地点にみなさんから様々な視点が出てきました。

・自分の現状に満足している人と満足していない人がいる
・「あなたらしく生きなさい」といろんなところで言われているが生きることに意味を考えすぎではないか?
・自分とは「目の前を大切にする」ことを続けた結果になるものではないか?
・「自分の好きなことがある」のが当たり前とされている世の中だと感じるが本当にそうなのか?
・「自分がしたいことをする」のは子どもが上手
・言葉にあえてしたくない/できない面白さが存在する
・わからないものを楽しむことで見えてくる知らない自分がある
・ひとりひとりが自分と出会うことができる
・(やまうちさんの取り組み)なんとなく街を歩く→出会う→それを人に説明する→はじめは「なんとなく」だったものがなんとなくじゃなくなる
なんとなくでいいじゃないか
・(加来さんが飲み屋で会った見た目よりも若々しい人が教えてくれた若くいる秘訣)「安易な方だけを選んで生きてきた」
・自分を変えるのではなく「ずれてみる」
・私が新しく当たり前にしたいことは?

ここまでの話が出たところで、でっちさんから次の問いが提示されました。

なににとらわれているのか?

この問いが出てきた経緯はポイントになる部分でしたので、書き起こしてみます。

「自分を変える変えない」みたいな話でいうと、僕は全然変えなくていいと思っていて、どんどん増えていくものだと思っているんです。「自分」というのは。

それって実は子どものころから自然とやっていて。あり方は人間の脳の構造的に「あなた変わりなさい」と言われると現状の自己否定をされる感じがするので、抵抗感が生まれるんです。「なんでお前に言われないといけないんだよ」という感覚ですね。

でもたとえば、自分は長男なんですが、弟の兄貴というあり方があるし、お父さんお母さんの子どもというあり方があるし、社会に出るといろんなあり方があって、バランスを持ちながら生きている。

既にいろんな「あり方」は増えていて、あまり肩ひじはらなくても「あり方」を状況状況に応じて増やしていくのが腹落ちする感覚がある。「あり方を変えた方がいいよ」という話ではなくて、大事すべき根幹の部分はある気がしているけど、そこは持ちながら「軽やかにいろいろとあり方を増やしていっていいんじゃない」という話はあると思います。

この流れで問いをイメージしていたんですけど、社会通念みたいな話でいうと「なににとらわれているの?」という問いはあると思います。

この場のエネルギー的にいうと「あぁ、うるさい」と言えている問いというような。「やりたい」とか「WILL」とかいいよ、というような感じですね。

山内さんの学校のホームページを見ていてなかでヒットしたのが「余白」
余白とか大事だなと思っていて、キチキチになるとしんどいから。余白があることの素晴らしさがあると思うんです。それって「なんとなく」というニュアンスに近いと思ったんですけど、スペースを自分でつくってあげるとか、つくれなかったら人と一緒にそういう時間を見つけていくことって大事で。

そんなことを思いましたね。

でっちさん

今年の問いは・・・後半へ続く

ということで、今年の問いを考える会は中盤に差し掛かって「なににとらわれているのか?」という問いが出てきました。

ここから、どんな「今年の問い」が見えてきたのか?

レポートは後半へ続きます。

よろしければサポートいただけますと幸いです。いただいたサポートは哲学対話を広げるために使わせていただきます。