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選ばないことで選べるもの

世の中、情報に便利は追求される一方で喜ばしいが、たまに、便利さに疲れることも多いのは事実。

このNoteでも、自分が普段読んでる記事、フォローしてる作者、スキした記事に似たコンテンツをお届けしてくれる。
が、こういうご親切が仇となることはよくあるわけで、「いやはやこちらとしては、むしろ、自分が普段気にも止めないことに出会いたいわけで、何ちゅう余計なことをしてくれたものよ」と切に思う、ことも多い。
実際、そういう親切なサジェスチョンに、助かったことも無いわけではないから、無下に否定はしないが、どいつもこいつも、よってこぞって芸がないではないか。
むしろ、普段読んでる記事と同類のもの、スキしてるのと似た雰囲気のもの、フォローしてる人々と近しい人が書いたものは、有無を言わさず容赦なくおすすめの対象から省いていく、という潔いプロトコルを作って選択できるようにしてくれないか、と切に願っている。Note事務局さん、いかがでしょうか。

そうしないと、自分に都合の良い情報ばかりが集まって、知らない間に自分はますます田舎者になってしまう。
かつてネットがなかった時代、人々は所属するムラの慣習やしきたりから逃れられずに生きていた(横暴すぎるまとめ)。情報ネット社会は、そこからの自由を予感させ、ネットサーフィンという言葉も流行った。ネット社会は自由の象徴にも思えながら、実は、逆に、世界規模でのムラ社会化を促進する装置になりつつある。

とまあ、ありがちな感想はさておき、そういう状況下に生きている現代人として、そうなると、ますます、選択しないこと、捨てること、不自由であること、の貴重さが増している。

少し前、仕事がピーク時に、いつも携帯でチェックしていたメールやテキストメッセージがチェックできない週末があった。やばいやばい、と最初は焦ったが、まあ、しょうがないっか、と腹を括ったら、何だか爽快。
メールに返事が無いため、慌てた先方から、電話がじゃんじゃんなったのは仕方がないが、ま、しゃーない、となり、まあ考えてみたら、別にそんなに焦るほどの要件でもなかった。

現在、旅先のホテルや飛行機、移動中のハイヤーも含めて、WiFi完備は、営業上必須かも知れないが、いずれ、「どんなに頑張ったところで、WiFiもネットも絶対つながりません!」が売りになる施設も出てくるはずだ。

そんなことばかり考えてたので、先日、音声配信コンテンツを聞いてたら、ちきりんさんが、「今の時代、映画館で映画を見ることの価値ってどこにあると思います?」とかいうような問いかけをしていた際、迷わず、「携帯を切って、真っ暗な中、目の前のスクリーンだけに集中できること」と独り言したが、ちきりんさんの考えもほぼ同じ。

あ、こういう配信って、時間が過ぎるとプレミアム配信とか言って、タダでは聞けないんですね、失礼。

ま、それはともかく、自宅で、何となく暇つぶしにNetFlix見ながら、つまらなかったら、別のにしよう、コーヒー淹れたいからちょっと静止ボタン、あれ、今なんて言った? と思って巻き戻し、再生続けながら、この俳優前なんの映画に出てたっけと検索、なんてことができないから、途中でなんか面白くなくなりかけても腹括って見るし、そもそも、だからみる映画もきちんと吟味する。
かつての映画体験てまあ、そういうものだった。

つまり、途中でコンテンツ変えたり、コーヒー淹れたり、巻き戻し、横で検索、そんなことができない不自由な環境を自ら選ぶこと。それが、映画館へ行く、という選択肢の意味だった訳だ。(無論、その先に、純粋な映画体験をする、という目的あることはもちろんだが。)

何も、映画館だけがそんな特別な場所というわけではなく、

・大学で経済学部に入るということは、物理学の研究はしないということ
・高卒でプロ野球選手になるということは、大学進学はしないということ
・高価な本を買うということは、しばらくは寿司など食さないということ
・あの子と付き合うということは、この子とは特別な関係にならないということ

などなど、何かを選択するということは、それ以外の何かを捨てる、ということでもあったはずだ。
ま、世の中、あれもこれもという欲張りがいて、野球もやるけどアメフトもやるとか、あの子と付き合うけどこの子ともその子とも懇ろになる、とか、言う猛者もいるが、それは、それなりの才能とたゆまぬ努力、継続するための最新の注意を怠らないこそであり、しかも、言っても、まあ、選択肢をいくつか、増やしてるに過ぎない。

しかるに昨今、僕はあれこもこれも持ってます、あなたも持っていていいのです、いや、持ってないのおかしくない? と煽る輩が多い。ように感じる。
いや、もしかすると、昨今に限らず万能への憧れは永遠にかも知れぬし、昔から商品を売ろうとする人々の常套手段ではあるが、ネット社会に溢れる情報が、さらに、何だかそういう、「何でも、おさえてます」感を助長しているように思う。
さらにそのために、いちいち本や映画も読んだり見てる時間すらもったいないから、要約、解説、引用に溢れる。

だからこそ、現代という時代において、持っていないこと、選択しないこと、捨てること、何かを欠落していること、の意味は大きい。
つまり、それ以外のことを、得ることのできる可能性に満ちているからだ。

ネット社会に溢れる情報、テレビで報道される出来事、身の回りの人の言動から、「あ、それは自分には無いものだ…」と感じた時、がっかりして落ち込む必要はなく、むしろ「おお、それ以外のものを自分は経験してきたはずであり、それ以外のものを持っている、そして、これからゲットできるチャンスが多いにある、と言うことだ!」と大いに勇気づけられるべきなのだ。

さらに、そんな、情報と選択肢に溢れる現代社会の中で、大半の情報に目を瞑って何かを選択して見せること。そんな潔い心意気の方に身を置く側でいたいと思う。

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