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幸福な誤読について

報連相

日本のビジネスシーンにおいて、特に若手に対する教えとして使われる言葉に、報連相、というのがある。
いわゆる、報告・連絡・相談、というやつで、集団で仕事を進める、それも、ミスをせずに仕事を進めるには必須、というやつだ。

まあ、今何をやってて、何が起こってるのか、担当者が、一切誰にも言わずに一人で悶々としているのは、健康に良くは無いと思うが、頭の悪い上司が、あまり考えもなく、報連相、報連相というもんだから、世の中、報告・連絡・相談しかできない輩が増え、中には、報告・連絡・相談しかできないデクの棒に成り下がってていることに自ら気づかず「自分も立派な社会人してるなぁ」などと勘違いするものが増えて困る。

世の中の大半の仕事など、特に報告も連絡も相談もしなくていいから、とっとと自分で仕事を片付けてくれさえすればいいのだ。ミッション完了! の報告なら、「あ、そう。で、どうだった、やってみて?」と雑談のしがいもあるが、「うまくいってません!」と嬉しそうに、報告なんだか連絡なんだかしてる暇があるなら、どうやって解決するか、自分で考えてみろ、とでも言いたくなる。

「考えて考えて考え抜いてみても、どうにもこうにもらちがあかない、ちょっとアドバイスくださいよぉ〜」ていうなら、なになに? と聞きたくもなるが、「相談があります」と言いながら、その実、問題点の分析すらできておらず、「この先、目つぶって、ドボンしようと思うんですけど、いいでしょうか…」と、ロシアンルーレットの引き金弾く片棒かつげ、と言わんばかりの脅迫めいてくる。

きっと、報連相を言い始めた人には当時の時代の要請や、彼/彼女が属した組織の事情も合ったであろうし、使われ始めた文脈もどうだったか分からぬ。そこはともかく、報連相が仕事を共同で進めていく上での基本的なスキルであるかのように喧伝するのはやめた方がいい。というか、そんな馬鹿なことをいう上司こそ、自分の頭で考えることができない証拠と思った報連相が良いか。

どうしても、そんなくだらないことに言及しているか、というと、どうも世の中、ルーチーンをこなすことだけが、仕事と信じ(無論、そういう仕事もあるが)、与えられたミッションを達成する過程で出くわす数々の困難を目にした瞬間、体がフリーズするタイプの方が多いことに気づいたからだ。

報連相などしてる暇があれば、とっとと解決方法を自分で考える

もちろん、逆に、ルーチーンをこなすことにあまり興味が持てず、非常事態ばかりを期待する逆のタイプも一定数おり、かくいう自分もどちらかというとそうなので、反省はするのだが、ルーチーンをこなすのは誰にもできる一方、この目の前の問題を解決するのはもしかしたら自分しかいないのかもしれない!(だから、問題として今まさに目の前に現れてるわけだし)、と考えれば、これこそが仕事の醍醐味と思うのは自分だけか?

というわけで、個人的には、報連相など、ほぼ興味がなく、「報告も連絡も相談もしなくていいから、現地に乗り込んで、一人で解決してきてちょ。そういうの、むっちゃ楽しいでしょ!」とスタッフに無責任に言い放つ、それが理想と思っている。
いや、自分も、実際に苦労した仕事では、ほぼ無法地帯に放り込まれて、報告してもあまりの異常事態に受けてのボスも理解不能隣、連絡しようにもお互いいつもどこにいるかわからないし、相談しようにも相談される側だって前提が全く理解できないからもう会話すら成立しない、てな状態に放り込まれて、「しゃーない、もう勝手にやります!」と腹括ってから、事態を前に進めることができた、という経験があるから心の底からそう思う。

野放し

究極、スタッフの育成も、それが理想。
無人島に漂着すれば、死ぬ気で生き延びることを考える。自分は、まだ無人島に漂着したこともないし、この先もそんな経験はしたくないが、きっとそうだと想像する。

ノウハウや、組織として蓄積してきたデータベースは重要だ。でも、それをどう肌感覚を持って適用していくか、データベースにある知識では太刀打ちできないと分かった時に、どうそれらを応用していくか、さらに、自分で何か新しい手法を作り出していくか。
それらを本気で考えるためには、退路を断たれた環境に置けば良い。

逆に、そんな環境になって初めて、本当に何を報告し、連絡し、相談しなくてはいけないか、が炙り出されてくる。

自陣内での華麗な情報のたらい回しよりも、敵陣内で点を取ること

柄にもなく、そんな、スタッフ育成論みたいな話をし始めたかというと、報連相がいいか悪いか、ということよりも、実はその背後に、仕事においては、確実に情報を伝達していくことが重要という考え方があって、それが物事・仕事・世界を面白くなくさせてる原因ではないか、と思ったから。

サッカーの試合においても、味方同士で器用にボールを回すことは上手くなっても、肝心のシュートに持っていけなくては試合に勝てない。
美しいパス回しも魅力だが、それが相手の防御ラインを崩し、敵陣内奥深くに切り込み、ワンタッチでゴールに持っていく、そんなフィニッシュに結びつかないボール遊びは、勝負、という意味ではなんの役にも立たない。

逆に、多少強引でも、相手のゴールさえ割ってしまえばゲームには勝てる。
仕事における情報のやりとりも同じで、報連相が生きるとすれば、ゴール前の選手に、ワンタッチでシュートを撃てるような情報を供給できる限り、において、である。

こぼれ球、セカンドボール、ルーズボール

という意味においては、仕事でゴールを決めるには、何も、味方からの美しいパスだけがチャンスではない。
相手のトラップミスからこぼれて目の前にたまたま転がってきたボール、味方が放ちゴールキーパーが跳ね返したセカンドボール、なんとなく中途半端に敵味方の間に放り込まれたルーズボール、なんだってチャンスになる。

いや、むしろ、そういうったボールをいかにチャンスに繋げるか、がサッカーの試合でも実践の仕事でもキーになる。

雑談からふと耳にした会話、商談はうまくいかなかったけどそこで相手に冷たく言い放たれた一言、誰も手をつけずにほったらかしになってた一見魅力的でない雑務、そんなところから、仕事上の問題を突破するチャンスが眠っている。

予想外のノイズ、文脈を超えた解釈

いや、むしろ、仕事でも研究でも、展開が面白くなるのは、そもそも予定もしていなかった出来事、想定していなかった誰かの一言、から事態が開ていくことにある。

それは、ある意味、予定通りのシームレスで漏れのない情報の伝達はない。
むしろ、予想外のノイズ、文脈を取り違えた(あるいは意図的に置き換えた)一方的な解釈、とも言える。

そう、情報とは、そんなふうに思いもかけない風に、誤解され、勝手に文脈を変えて引用されることでこそ、生きてくる。
言ってみれば、幸福な誤読、とでも言うような。

伝達される情報自身の視点、情報を発信した側の思いで言えば、それを、誤配というのか?

PDCAよりも…

報連相と同様に使い古された用語で、もはや古い、今や時代はOODAだ、などという声もあるようだが、いろんな場面で聞かされることが多い。

つまり、Plan >>> Do >>> Check >>> Actionという工程を進める、しかも、それを何度も繰り返すことにより、物事は洗練されていく、という発想。
それが、OODAだと、Observe >>> Orient >>> Decide >>> Actとなるらしい。

この考え方を一概に否定はしないが、アイデアの深化や、一筋縄ではいかない問題を解決していく上では、先ほど記したような、幸福な誤読、とでも言うような、偶然、ラッキー、ノイズ、などをいかにとり入れていくか、がポイントになる。

Misinterpret >>> Quote >>> Develop >>> Represent

幸福な誤読 >>> 勝手な引用 >>> 独自の深化 >>> 新たな作品!

とでも言うようなサイクルを繰り返すこと、それこそが文明の変遷ではないか。
これを、これからはPDCAの代わりに、MQDRだ、などと、つまらない喧伝をする愚は避けるし、定式化しないことこそが、幸福な誤読を誘発する唯一の道。

報連相などつまらない情報のたらい回しを超えて、誤読・読み違いを恐れずに、ゴールに美しい一撃を放り込むこと。

その志を忘れずにいたい。

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