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好きということへの覚悟。

自分の好きなものを誰の目も気にせず好きだと言えなくなったのはいつだろう。

好きな歌手、
好きな作家、
好きなファッション、
好きな食べ物、
好きな色...

好きということにはそれなりの責任が伴うのではないかとぼんやり感じ、いつのころからか私は好きを飲み込むようになった。

好きという言葉を外の世界に出すと、途端に主観的なものから相対的なものになるのではないか、と感じてしまう。

「私もそれが好き、〇〇は知っている?」
「私も好き。じゃあ〇〇は読んだ?」
「私もそれ好き。〇〇のお店のものが美味しくってね、行ったことある?」

分かってる。
誰も私を牽制しているわけなんかない。

一人で心の中で好きな対象を愛でている時は、自分の好きが、その対象への最大限だと思える。

だけど、もっと好きな人が出てくると「私は本当に好きと言えるほど、その対象が好きなのか?」と疑問が浮かぶ。

そしてその疑問は私の心をチクリと刺す。

自分だけが暮らすお城の中なら良かったのに。
誰にもお城の場所は教えるべきではなかったのだ。

私が牽制と錯覚するやり取りをすると、自分が好きだと言ったことに後悔する。

だから好きなんて言わなきゃいい。
何も好きにならなきゃいい。

何も好きじゃないというポーズをとりつづけたら自分が何に感動して、何が幸せで、何が好きなのか、ありとあらゆることに鈍感になった自分に気づいた。

やばい、このままだと。

好きという事への覚悟から逃げ続けて、私のお城から誰もを締め出した。
そんなことを長年続けたら、私のお城は錆びつきはじめた。
寂しくなってからではもう遅く、掃除するのにはかなりの時間がかかるようだ。

好きということは覚悟がいる。
傷つくことや少し頑張ること。
自分の心のスペースを誰かに分けてあげること。

ちゃんと心の換気をしなければ錆び付き始めて自分の心や頭を鈍感にしてしまう。

少しの勇気だ。好きなことを好きということは。

何に臆病になっていたのだろう。捨てればいいのは余計な自意識だけだ。

錆び付いたお城の換気をするために、私は掃除を始めた。

何が好きだった?
何が楽しかった?
ひとつひとつ好きだったはずのことを思い出す。

素直な私を取り戻すために、
私は勇気を出して好きだった本を開いた。

#コラム #エッセイ #note #日常 #いつか書く仕事がしたい




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