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性を教育する

以前書いた「小学校の先生になってみたい」

小学校だと厳しいかもしれないが、ひとつ自分の中でしてみたい授業がある。
それは「性を教育する」こと。

性の話ってなんだかしづらい雰囲気がある。
けれども歴史としても、他の動物と比べても物凄く興味深いと思う。

正常位

例えば正常位
どうしてこれが正しい、正常とされているのか。
疑問に思った方も少なくはないだろう。
これは以前どこかのnoteでも書いたが、これを"正常"と決めた宗教がある。
(諸説あり。)
それはキリスト教だ。
もう少し踏み込むとカトリックと言われている。

正常位の英語表記にしっかりと表れている。
"missionary position"。
「宣教師の体位」。
カトリックがプロテスタントの抗争が激しくなりイエズス会を作り、宣教活動が盛んになった時代。
彼らは行く先々で布教活動をしつつ、後背位は動物的で野蛮だとし、お互い顔を見れる正常位こそ、理知的で人間的な正しい性行為の仕方なんだ教えて回った。
私たち仏教・神道の広く普及している日本でも、西暦含めキリスト教の影響はしっかりと受けている。

”公”と”私”

他にも性行為はどこでするか、を考えると面白い。
性行為や自慰行為というものは、最も私的なものだろう。
自らの性器を出すこと、裸であることを他人に見られることは恥ずかしい。
だから人はホテルであったり自宅であったり個室でそれらを行う。
ただこの「家=私的場所」という考えは西洋的な考えであることは意外にも知られていない。
”個室”という概念が伝わったのは明治以降のことだ。

一方で、アフリカの民族にとっては、家とは公的場所なのだ。
彼ら民族の保有するゲルのようなテントは、親戚や他人の流動性が高く、公的な会話が常に行われる。
個室という概念はなく、その家の中では常に他人といる感覚がある。
では性行為や自慰行為を彼らはどこでするのか。
それはである。
「家=公的場所」の彼らにとって、「外=私的場所」なのだ。
トイレも一人でくつろぐことも、性行為も自慰行為もすべて外で行う。
公的場所と私的場所が入れ代わるだけで、これだけ価値観が異なる

性行為

最後に、性行為について。
どうして他の動物は交尾というのに人間は性行為なのか。
そもそも交尾と性行為の言葉の持つ意味の違いは何なのか。
僕の勝手な印象論ではあるが、交尾は生殖行為自体を指し、性行為は生殖行為のみを指す言葉ではないように思う。

つまり、「交尾=子供を作る行為」で、「性行為=子供を作る行為+α」がある気がする。
この+αには何があるのか、快楽である。

公的な場で性行為は快楽だと言うのは憚られる雰囲気がある。
しかし、大真面目に性行為は快楽であり、娯楽の一種となっている。
ここを避けて性を教育するというのは、性行為はしてはならないものと言っているようなものだ。

他の動物を見てみよう。
イルカや猫は15秒で射精に至ると言われ、同じ霊長類のチンパンジーも8秒くらいと以前読んだ気がする。
キリンは0.5秒ってのは前もどこかで書いた気がする。
そして人間は30秒。(単純な射精に至るまでの時間。)
蛇は23時間とかなり長いという話は聞いたが、話がブレるので一旦これは置いておく。

交尾というものは最も無防備になる瞬間である。
野生動物はこれが短ければ短いほど良い。
しかし人間の前戯なども含めた性行為時間は長くなっている。
生殖行為のみを重要視するのであれば、その必要性はない。
つまり、これは性行為が生殖行為だけではなく、快楽を感じさせるものであることを意味している

性行為とは快楽である。
先進国で日本のみが違うが、諸外国が最も幸せを感じる瞬間が性行為と答えるように、これは疑いようのない事実だ。
快楽であるからこそ、人は避妊をしてまで性行為に及ぶ。
だからこそ、快楽であることを踏まえて避妊の正しい仕方を教える必要があるのだ。
こういう話を少し大人になった子供たちにしてみたい。

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