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仏を拝む時、神に祈る時。

タイトルだけ読むと宗教色が強そうな感じがしますけど、そんなこともないので、ご安心ください。たぶん、大丈夫です。たぶん。

奈良と京都を旅する古都巡りに、最近ハマってます。
秋には、京都1泊→奈良2泊。
で、今回、クリスマス休暇で、奈良2泊→京都2泊。

今回は、前回の奈良訪問で訪問しきれなかったところ、すなわち、唐招提寺、奈良国立博物館仏像館、春日大社の若宮神社(式年造替直後)、金龍神社、新薬師寺、元興寺、平城宮いざない館、を回りました。
(京都では、平安神宮、南禅寺、蛸薬師、東寺、あたりを巡ってきました。ついでに、京セラ美術館でアンディ・ウォーホル展も観てきました。とても良かった。)

前回、文化財の胸焼けを起こしてしんどかったんですけど、今回も同じく「重要文化財なんて、大して珍しくもないのでは?」って気持ちになるくらい、国宝にまみれてきたわけですが、そんな中で、ふと、気付いたことがあります。

それは、仏像に手を合わせるときと、神社で(直接は見えない御神体に)手を合わせるときでは、僕の心持ちが全然違うな、ってことです。

そもそも、僕は、神仏に対して、あまり具体的なお願い事をすることが少ないんですよね。少なくとも、ここ15年くらいは。
基本的には「これからの人生、きっと色々あると思うのですが、しっかり頑張っていきますので、見守っていてください」ということを願うスタンスです。
銭洗弁天/銭洗不動尊とか、酉の市とか、えべっさんとか、薬師如来とかいった「明確なご利益」を謳うところでは、具体的なお願い事(商売がうまく行きますように、とか、病気が治りますように、とか)をすることもありますけど、その頻度は、そんなに多くはありません。

ただ、そんな似たような内容の抽象的なお願いばかりする僕が、仏を拝むときと、神社でお祈りをするときでは、心持ちが違うと感じたわけです。
おそらく、これまでも感じていたのでしょうけれど、こんなに短期間に多くの寺社仏閣を巡って手を合わせるなんてことが、人生でなかったので、言語化するに至っていなかったのかもしれません。

どうやら僕は、仏像に相対しているときは、仏の御心について考えるようです。
仏像の表情や佇まいを見ながら、自分の心と向き合う。そして、仏のお声に耳を傾ける。そんな気持ちになっています。
仏という存在を意識しながら、自分自身と対話するわけです。その際には、自分の力だけでうまくいったと思ってないか?慢心してないか?とか、強欲になっていないか?ちっぽけな自分のことを過信していないか?調子に乗っていないか?とか、そういう風なことを思うんですよね。

つまり、目の前の仏像から「身の程を知りなさい。身の丈にあった生き方をしなさい。」と語りかけられているな、と感じるんですよ。

一方で、神社では、僕は、もっと自分と向き合うように促されます。
もともと、実家が雪深い山中にあったこともあり、自然の力への畏怖/畏敬の念が強いんですよね。正確ではないかもしれませんが、アニミズムとか、自然崇拝とか、そういう感覚があります。
つまり、僕にとって、神(すなわち、日本の神道における神、八百万の神)は、恐れるべき存在なのです。

その怖い存在、畏怖の対象としての存在に手を合わせて祈るとき、「お前は、そんな願いを掲げるほど、ちゃんとやりきってるのか?」と問われているように感じるんですね。
「もっと、努力しなさい」「全力を尽くしなさい」と、言われている。そんな気持ちになります。

ということで、僕の心持ちをまとめると、

仏を拝む時は、「身の程を知るべし」と感じ、
神に祈る時は、「努力を怠るな」と感じる。

ということになりそうです。

せっかく、神仏に見守って貰ってるんだから、ちゃんと生きていかなきゃな、って思いました。

来年も頑張って、ちゃんと生きようっと。

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