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【幕末維新 紳士録】-01- 古賀侗庵

古賀侗庵こがとうあん1788年~1847年)

幕末維新 紳士録 といいながら、ペリーがやってくる前に、もう亡くなってしまっている人を持ってきてしまいました😆。

古賀侗庵こがとうあんさん、学校で学ぶ教科書にはまず出てこない人だと思います。

何をした人かというと、儒教を教える学者さんです。

佐賀藩士として生まれますが、大陸からの帰化人の末裔で本姓は劉氏です。

弱冠、満21歳にして、昌平坂学問所で儒官(儒学を研究したり教えたりする人)になります(つまり幕臣になったということでしょうか)。
これだけみても、頭がすごく良かったんだなって思えますね。

でも、それだけじゃないんです。昌平坂学問所で儒官になったときに『擬極論時事封ぎきょくろんじじふうじ』というものを書くんですが、そこに書いてあるのが凄いんですね。

南下するロシアの脅威を説き、ヨーロッパと日本の軍事力の格差を認め、日本の独立を維持するためには交易を行いながら、武備を強化することが必要であると、早くも開国論を唱えた。

「文明開化は長崎から」 広瀬隆

ペリーがやってくる半世紀近くも前に、海外の情報を集めて二十歳そこそこの若者であった古賀侗庵こがとうあんさん、こんな凄いことを言っていたんですね。

彼はその書で、兵力としては火器つまり小銃と大筒(大砲)が優れているのに、日本では劣っているので、火器の充実に力を入れ、大艦を建造する必要があると説き、戦わずに平和通商をしながら、その間に船と兵力を整えるべし、と論じた。

これは高島秋帆の主張とまったく同じ「他殺の術を以て不殺の用をなす」
すなわち防備を堅固にして相手に付け入らせず、無用の殺傷を避ける術であった。

「文明開化は長崎から」 広瀬隆

開国して通商はするが、欧米列強に付け入る隙をみせないため、軍備はちゃんと整える。帝国主義の時代、日本が独立・平和を保つためにはどうすればいいかを、すでにこの時期に明確に説いていたんですね。

凄い人がいたものです。

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