見出し画像

【58冊目】ムーン・パレス / ポール・オースター

10月です。
本日17時-24時半です。

10月ということで今年ももう終わりですね。みなさま一年いかがお過ごしになりましたか?あんなこと、こんなこと、あったでしょ。でもそんな一年を振り返る前に、やらなきゃいけないこともありますね。そう。当店月初のお決まり、ウィグタウン読書部です。

というわけで9月の課題図書はポール・オースター『ムーン・パレス』。父を知らず、母を幼い頃に亡くした主人公マーコの人生が、唯一の肉親であった叔父の死をきっかけに転がり出す物語なんですがね。〈それは人類がはじめて月を歩いた夏だった〉からスタートした物語は、ネイティブ・アメリカンや西部開拓時代をめぐり、ニューヨークの摩天楼へと転がり込む。アメリカという国家の歴史をなぞるようでありながら、その実、描かれているのは主人公マーコの人生であり、彼の人生を描くようにアメリカという国家を描いているようにもとれる。一つの人生が一つの国家と重なり合うのであれば、それはその国家が内包する個々人の人生こそがその国家を成り立たせているという普遍的なテーマにも繋がる。雑多な人種の行き交う文化の坩堝であるアメリカという国を舞台に「家族」「血脈」を本筋にしながら「国家」というものを描いている作品にも感じました。どことなくワイルダーの『わが町』を思い出しましたね。一つの国に住む一人の青年。この物語はその青年にフォーカスして描かれるが、街で行き交う〈名もない他人〉の中にも、当然それぞれの物語がある。そうした〈名もない他人〉の物語が、一人の青年の「家族」「血脈」の物語によって描かれているようにも感じましたね。どうなんでしょうね。例によってここからは【ネタバレ注意!】となりますので、どうぞご留意くださいませ。

さて。
早速しっかりとしたネタバレをしようと思うんですがね。この物語は3部構成から成り立っている。つまりマーコが転落し続けて底の底まで辿り着く「第一部」、そこから恋人友人に救われエフィング老人に雇われて仕事をこなす「第二部」、そしてエフィングとの仕事が終わり彼の息子であるバーバーとの関わりを描く「第三部」というわけですがね。第一部ではひたすらに転落し続けるマーコの姿が描かれる。冒頭で〈僕は危険な生き方をしてみたかった。とことん行けるところまで自分を追いつめていって、行きついた先で何が起きるか見てみたかった〉と独白しているように、マーコの転落は何も不可避なものではなく、むしろ自ら積極的に堕ちてこうとする姿勢が見られる。叔父の死という失望から立ち直れないまま、彼は「ムーン・パレス」という中華料理屋の煌びやかなネオンが見えるアパートで、ひたすらに叔父の残した膨大な書物を読み続けるだけの生活を始める。読み終わった本は古本屋に売りに出し、その度に古本屋の店主は「こんなガラクタを持ってきてもらっても金にはならん」と、本を安く買い叩く。愛すべき叔父が遺してくれた膨大な蔵書を「ガラクタ」呼ばわりされて、マーコの中では価値観の転覆が起こるかというとそうではなく、むしろ彼はそれが世間で「ガラクタ」と呼ばれれば呼ばれるほどその価値を自分の中で強化していくようなところがあり、否定されればされるほどその価値を手放せなくなっていく。これは、身寄りのない自分にとって唯一の血縁であった叔父さんの存在を価値あるものだと信じ込みたいがためで、逆説的に叔父さんの血縁である自分の価値を守るためのものであったように思う。自分の存在を守るために叔父さんの蔵書を読み漁り、その行為によって自分を価値づける。マーコは世間的な価値観に沿って叔父との繋がりを放棄してしまうことを何よりも恐れ、その結果その身に崩壊が訪れようともかまわないのであった。とうとう部屋を追い出され路上生活を始めたマーコは、そこでようやく自分の人生を実感し始める。〈ゼロを作り出したのは僕自身なのだ。これからはそのゼロのなかで生きていくしかないのだ〉という独白は、彼が「血脈」から離れ、自分の人生をゼロからスタートさせなくてはいけないという認識によるものだ。しかし、彼はまだその生き方を知らなかった。結局のところ路上生活をしばらく続け、とうとう行き倒れ寸前というところで友人恋人に救われて、彼は一度目の「生まれ変わり」を果たす。

「生まれ変わり」を果たした彼に待っていた次のステージは、奇妙な老人の世話役という仕事だった。盲目で脚の不自由な老人、エフィングの世話役募集の求人に応募したマーコは無事面接をパスして仕事を始める。目の見えないエフィングはマーコに様々なものを描写させる。「何が見える?」と。このやりとりというのはとても示唆的ですね。マーコは慎重で、エフィングの質問に対しても決して形而下のものにとらわれずに回答していく。「目に見えるもの」と「目に見えないもの」の関係。エフィングの「偶然なんてありゃしない」「この世のものは全て電気でできている」というセリフ、そしてニコラ・テスラへの信奉などに象徴されるように、エフィングの存在は「偶然と運命」を物語る上で重要な役割を果たしているように思う。これは、のちに彼が語る壮絶なエフィング自身の人生の物語にも集約されている。エフィングの物語を文章に起こす仕事をしながら、マーコはその人生を追体験することになる。エフィングは目的を果たして寿命を全うし、彼の物語はマーコの手によってエフィングの私生児であるバーバーの元へと渡る。これは親から子への物語の伝承であり、やはり「血脈」によるものである。のちに分かることだが、エフィングの子であるバーバーその人こそ、マーコの父親であることを考えると、この「物語の伝承」は、さらに「血脈」を探る上で重要な意味を持ってくる。「偶然と運命」はこの物語の大きなテーマで、それは一人の青年が自己のルーツを探る方法で啓示される。

エフィングの死を経て、実父であるバーバーとの関係を築き始めたマーコの身に降りかかる大きな出来事の一つが、恋人キティの妊娠である。彼は妊娠を喜び父になることを望むが、キティは母になるには早すぎるとそれを拒む。二人の意見はぶつかり合い、結果キティは子を堕した上で二人は別れることになる。ここまでマーコの「血脈」の話を読んでいた読者にとっては、マーコがどれだけ父になることを熱望していたかが分かってとっても辛いですね。キティも辛いんですけど。そして別れちゃって、バーバーの元で居候を始めたマーコですが、そのバーバーもいいところで事故で亡くなっちゃって、マーコとしてはバーバーが父親だと分かったと思ったらそれを失うわけですから大変ですよね。子ができたと思ったら失い、いないと思っていた父が現れたと思ったら失い、支えてもらおうとキティに電話したらやっぱり失われていて、その上残された遺産である現金も泥棒に盗まれたりして、彼は全てを失う。何も持っていない、何もわからない状態から始まった物語は、全てが分かった上で全てを失った状態で終幕へ向かう。マーコ本人の状態だけを見ると、ゼロから始まった物語がゼロのまま終わるというだけなのだが、同じ「ゼロ」でも、何も分からない「ゼロ」と全てが分かった上で失った「ゼロ」とでは全く違う意味を持つ。全てを失ったマーコは、祖父であるエフィングが語った物語の中にある洞窟を目指して荒野へ向かうシーンでこの小説は終わる。再びマーコは運命から解き放たれて、生まれ変わりを果たすわけなんですがね。「ここから僕ははじめるのだ」「ここから僕の人生がはじまるのだ」という呟きで終わるラストシーンは一見血脈からの解放のようにも見えますが、実際に向かっているのは祖父が過ごしたという洞窟ですからね。どうとったものやら。なんだかすごく読みやすかったんですが、ちょっとまとめきれなかった感じですね。エフィングいいキャラだったなって感じですね。もっと考えたかったですが、ちょっとまとめきれなかったです。

というわけで9月の課題図書はポール・オースター『ムーン・パレス』でした。10月の課題図書は佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』です。読んでいきましょう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?