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【4冊目】 ニッポニアニッポン / 阿部和重

なんの変哲も無い火曜日です。
このような日常に身を委ねていると、なんでしょうね。いわゆる「隕石でも降ってこねーかなー」みたいな、非日常、アドベンチャーを求める気持ちになるわけなんですが、実際に降ってこられては困る。日常が分断されるのは面倒だっていうんで、我々に与えられたものが書籍なわけなんですね。そう。本日の投稿は、月初のお約束、ウィグタウン読書部です。


さて。
そういうわけで、先月の課題図書は、阿部和重『ニッポニアニッポン』ですね。例によってここからは完全に【ネタバレ注意】になるわけですがね。その前にひとつ、私が今年の1/2にみた初夢の話をしましょうか。
私は、弟とその友人と3人で、国家だか宗教だか、なんらかの権威に対してテロを起こそうとしている。下準備は全て整い、迎えた当日。私の仕事は「このダンボール」をしかるべき場所に届けることだったんですね。このダンボールを届ければ、我々のテロルは完成する。本願成就となるわけだが、そこには無辜の人々の犠牲が必ずやある。そうまでしてこのテロルに意味はあるだらうか。など、要は直前になって怖気付き、ダンボールを届けることができなかったんですね。そんな私のところへ、自分の仕事を済ませた弟が息せき切ってやって来るわけですよ。「ちゃんとダンボールは届けたか!?」と。私なんていうのは、まだ部屋の片隅に置いてあるダンボールの前でしどろもどろになって、あの、その、言っていると、弟は「えーい!馬鹿者!」と言うか何かして、私からダンボールを奪い取って原付で走り出していってしまったんですね。そんな後ろ姿を呆然と見守る私。その様子をきょとんと見つめていた、事情を知らない母と弟嫁が私に尋ねるわけですよ。「なにかあったの?」。私はしどろもどろと。あの。その。いう夢でしてね。こんな夢を見たのも、間違いなく1月の課題図書を『ニッポニアニッポン』にしようと考えていたからですね。テロルですね。
というわけで中身に触れていこうと思うのですが、まずストーリーラインとしては「自分勝手な引きこもりが革命を夢想し事件を起こす」というものですね。主人公の鴇谷春生は、自分の姓にある「鴇」が、絶滅危惧種である「トキ (学名 : ニッポニアニッポン)」のことを指すと知り、その存在に興味を示す。自身の満足の得られぬ生活から逃げるように、春生はトキのことを調べあげ、その境遇にシンパシーを抱き始め、ついには「ニッポニア・ニッポン問題の最終解決」を行使せねばならぬ、という考えに至るわけなんですがね。この物語は、大きく二部に分かれると思うんですね。つまり「部屋の中」と「(計画を実行するために出た)部屋の外」である。そして、この二部を「それぞれに出てくる "色" 」に着目して考察をしていきたい。
この一部と二部では、作品内における色彩が明らかに異なっている。具体的にいうと、一部は極端に色が少なく、二部はカラフルになっているのだ。
試しに、一部に出てきた "色" を抽出してみると、トキが絶滅危惧種であることを示す「"レッド" リスト」という表現、そして、春生がトキを刺し殺すことを夢想した時に現れる「"白い"羽を"赤"く染める」という表現、そして「"キン" "シロ" "アオ" "ミドリ"」と言ったトキの名前、この三ヶ所のみである。
翻って、第ニ部を見てみると、始まって三行目に、早速「"グリーン" 車」という単語が出てくる。車内で春生が飲んでいるのは「"オレンジ" ジュース」だし、二部のヒロインである瀬川文緒が肩から提げているバッグは「"橙色"」だ。フェリーターミナルには「"黒"地に所々"赤"い模様の塗られた大きな彫刻柱」が春生の目を引いている。パッと見ても、第二部の方が明らかに色彩が豊かであることに気付かされる。もしこれが、作者によって意図的に仕掛けられたギミックだとしたら、そこにはどのような意味があるだろうか。第一部では暗い部屋の中で、トキのことだけが色彩を帯びて輝いていたのに対し、第二部で外に出てみれば、街にはトキ以外にも様々な、いや、文字通り"色々"なカラーが溢れているわけだ。春生の狭い世界では、ほとんど唯一の関心事だった「トキの問題」が、一歩外に出ると、それ以外のものがいくらでも溢れている。この色彩を持って、作者は春生の世界がどれほど世間とかけ離れていたかを表したのではないだろうか。ではなぜ、春生は暗い部屋の中で、唯一の光をトキへと照射したのか。その点を掘り下げてみよう。
第一部で語られるのは、春生の自意識の暴走と、陳腐なまでの自己正当化である。作者は、メタ視点でもってそれにツッコミや注釈を加えながらも、簡素な人物描写で無理やり「春生とはこういうイタい奴なんだ」ということをこちらに示してくる。自身の姓名にある文字から、トキへのシンパシーを覚え始め、境遇を調べるに連れてそれが強まっていく様を、とても記号的に描いている。つまりは、多くの出典を用いて、客観的に(見えるように) 春生とトキの間になんらかの特別な意味があると思わせようとしている。これはもちろん春生の頭の中を追体験させるためで、読者は「アホやな」と思いながらも「こんなアホもおるかもな」と妙な説得力を感じながら第一部を読むことになる。
そんな第一部で春生が囚われてしまったものとは、ずばり「運命」に他ならない。
単なる符合に運命を見出してしまったがゆえに、春生は計画を実行するわけなのだが、その結果、春生は「運命とは、全く無意味なものだ」と「明確に悟」ることになる。この"運命論の破綻"という視点で再び物語を見ていくと、これは入れ子構造を持つ物語ではないかということに気が付く。
第一部。春生がトキのことを調べていくに従って、その思いを強くしていくものに「トキが『人間の書いたシナリオ』によって生かされている」という観念がある。野生種のトキは全滅しており、いま保護されているトキは、もはや自然の運命から遠く離れてしまった存在である。俺がその存在を運命のもとに返してやる。そんな思いから、トキに対する感情は「シンパシー・同一化」から「尊重」「憐憫」へ。そして「嫉妬」「怒り」へと変化していく。そして、自らの運命を「トキをこの手で密殺すること」と決定づけるのである。
この「 "運命"から逸れた存在であるトキを "運命" のもとに還してやることが私の "運命"」という考えに、春生自体が違和感を覚えながらも、彼は本木桜というヒロインの死さえも、自身の運命論を補強する事実であるとして、それ以外の目的から目を逸らし続けた。この運命を全うすることだけが、自身のレゾンデートルである、という観念に囚われている。そして春生は計画を実行するわけだが、その結末はとてつもなく呆気なく、お粗末なものである。ゲージに侵入し、駆けつけた職員を昏倒させ、警備員にナイフを突き立てさえしたというのに、春生はギャアギャアとうるさいトキをいつまで経っても捕まえることが叶わず、しまいには「もうどうでもいいや」と「たも網を鉄柱に投げつけ」る。「運命の無意味」を悟るとともに、その"運命"に依存して生きてきた春生に、もはやそれ以降の人生は考えることが出来なかったのだろう。ラスト、無気力になった春生がつけたカーラジオからは、クイーンの『ボヘミアンラプソディ』が流れてくる。「Nothing really matters / anyway the wind blows 」というフレーズとともに、春生の物語は幕を下ろす。しかしアレですよね。このタイミングで「Mama, just killed a man」ですから、これはもうギャグですよね。この終わりを迎えた後に表紙を見てみると、これはクイーンのアルバムジャケットのパロディですし。なんでしょうね。「『ボヘミアンラプソディ』になぞらえた、運命の不結実」についての物語ってことでいいですかね。阿部和重さんはこの手のギャグがちょこちょこ真顔で入っている場面が、どんな作品にもあるところがいいところですね。今作なんかだと、トキが繁殖のための交尾をしていることが確認された記事を読んだ春生が「俺がお前らのことに頭を悩ませているのに、お前らはやりまくってるっていうのか。俺はずぶの童貞だというのに!ムカつく!」みたいに言って「トキ、殺す」みたいな結論に至るシーンとかは、もう、なんというか、あのさぁ。みたいな気分になりますよね。大好きです、あのシーン。しかし、なんというか "運命" に縋ることでしか救済を求められなかった春生に、少しく悲しい気分にもなりますね。ならないか。


というわけで、1月の課題図書は阿部和重さんの『ニッポニアニッポン』でした。今月2月はミシェル・ウェルベックの『セロトニン』です。愛の季節、2月にぴったりの選書ですね。やっていきましょう。

           (posted on Facebook on the beginning of February)

            こちらの文章はお店のフェイスブックページからの転載です。

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