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【40冊目】ダブリン市民 / ジェイムズ・ジョイス

音もなく訪れた如月です。
本日17時-24時半です。

さて。
本日は導入なしで本文に入ろうかなと思うのですがね。というのも、本日なんていうのは月初なわけですから。当店なんていうのは、月初にお決まりがあって、つまりは「ウィグタウン読書部」なんていって、毎月の課題図書を選定しては、月初に前月の課題図書の感想文をあげるなんていうのをやっているわけなんですがね。これがまた、先月の課題図書に随分と手こずりましてね。読書に割く時間がなかったというわけではないかとも思うのですが、どうも読み進まず、気付けば1月も残り3日というところで、文庫本の半分近くがまだ残っている状態だったんですね。これはまずい。この「ウィグタウン読書部」もなんだかんだ今回で40冊目に到達し、つまりは3年以上やっているわけですが、今回初めて読み切らずに終わるかもしれない。嗚呼、私なんていうのは、自らが設定した課題さえもこなせぬ矮小な人間なのだらうか。それでいて、平気な態度を保ちながら店を運営できるだらうか。そんな厚顔無恥傲岸不遜な人物に成り下がり、それでもへらへらと己が矮小なる自尊心を守り続けることができるだらうか。否!私は課題を達成することでのみ、自らを誇ることができる。評価に対する報酬を得ることができる。つまりこれは、もはや読書ではない。私が私たりうるに必要な試練なのだ!みたいな悲壮な覚悟をもって、なんとか昨晩までに読了。大急ぎで感想文を書きおえたわけなんですがね。よかった。なんとか伝統を継ぐことができたという気持ちですね。よかったよかった。

というわけで、1月の課題図書はジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』。私なんていうのはダブリンで1年間生活していたことがあるものですから。当然ジョイスの名前は知っているし、『ダブリン市民』はもとより『ユリシーズ』とかまで読んでいて然るべしなんて思うんですがね。ところがどっこい、これが全く読んでいない。いつかは読もうなどと言いながら「いつかは読もうリスト」に放り込んでいたところ、リスト名が「延々そこにあるリスト」へとの更新がされるってんで、慌てふためいて抜き取ったのが今回の『ダブリン市民』なんですがね。そんなわけなので、なんとなく内容は知っている。タイトルの通り、ダブリンの市井の人たちを描いた作品であるというのは想像がつくところではあるが、それに加えて、誰が言ったか「例えダブリンという街がこの世から突如として消滅したとしても『ダブリン市民』が一冊あれば街をまるっと再建することが可能だ」というフレーズは聞いたことがあり、こいつはいい。それだけダブリンという街の姿を切り取った作品だというのなら、私はある種のノスタルジーを持って読むことができるかもしれない、など思ったわけなんですがね。いま「ダブリン市民 例えダブリンが消滅しても」という検索ワードで検索してみても、こんなフレーズはヒットしない。はて。もしかしたら、それは『ユリシーズ』に対しての台詞だったのかもしれない。だとすれば、私は『ユリシーズ』を読むべきだったのかもしれない、など思ったわけなんですがね。『ユリシーズ』は長いので。今回は『ダブリン市民』なわけなんですがね。やはりそこには、ダブリンという街を再構築するのに必要なピースがそこここに溢れておりましたね。読んでいきましょう。

本書は全15章からなる短編集で、いわばダブリンの人々に焦点を当てたアンソロジーということができるんですがね。これがなかなかに読みづらい。というのも、今作は非常に自然主義的なリアリズムで描かれており、大変に細かい描写がたくさん出てくる。その様たるや、その場その場の空気や風景をすべて描写しきろうとするが如しで、ストーリーラインを追おうとする私にとって、それは凄まじい量のノイズとなって襲いかかってくる。その上、登場人物の内的告白が、自然主義的表現でどんどんと流れていき、いわゆる「意識の流れ」に乗っかって、轟々としたノイズの藪を突き進んでいくようなもので、とってもわかりにくい。各章はとても短く、ページ数にして十数ページで終わるものさえあるのだが、そんな藪を切り拓いて、ようやく登場人物のことを掴みはじめたかな、と思うが早いか、その章はぷつりと途切れ、また新たな章の流れがスタートするといった具合で、こちらは「ようやく流れを掴んだのに。。」みたいな徒労感を味わいながらも、また次の流れに乗ることを余儀なくされるのであって、いやはや。疲れましたね。例えば、第1章である『姉妹』という作品のあらすじをお伝えすると、ある姉妹が幼い頃にお世話になっていた司祭が、病気で死にそうになっている。姉妹は幼い頃にお世話になったとはいうものの、司祭にあまりいい印象を抱いておらず、なんなら「くたばりぞこないが」くらいのことを思っていたわけですが、そんな司祭がある日とうとう帰らぬ人になったという報せを聞く。姉妹は、臨終の様子を含めた、最近の司祭の様子を聞くのだが、どうやら晩年の司祭は少しボケていたのかなんなのか、真夜中に暗闇の告解室で、誰もいない空間に向かってカラカラと笑っていたらしい。と、いうところで話は終わるのである。私は、この唐突な終わり方にすっかり面食らってしまって。え?司祭が亡くなって、カラカラ笑って、え?みたいになってしまったわけなんですがね。これなんていうのは短編集なわけですから。なるほど。第1章はここで終わりだけれど、また次の章かそのまた次の章かで、この姉妹だか司祭だかに関するスピンオフみたいな話とか、あるいは直接間接に関わらず関わってくる登場人物が出てきたりして、それは第1章が縦糸だとしたら、その章こそが横糸となり、そうして編み込まれるのが、ダブリンという街なのだな、と思ったのですが、残念ながらそれ以降姉妹も司祭も一切その姿どころか匂いさえ漂わせることはせずに、また別の登場人物のドラーマが唐突に始まり唐突に終わるのである。その様な話が15章続いていく様はまさしく「ダブリンに住む人々の人生カタログ」というにふさわしく、読者はその人生の断片をこうして味わうことになる。その場には縦糸だけが陳列されて、横糸と重なって描かれる模様は現れない。
 
しかしこの感覚を得ると、今作が多少なりかは読みやすくなる。例えば2章目の『邂逅』は、少年が不良の友人と町外れにある発電所を見に行く(道中で「子供に鞭打ちをして折檻するのが好きなんだ」と語るヤベェ奴に会う)話だし、続く3章目の『アラビー』は、ちょっと気になってる女のコに「バザー行くならなんかイケてるの買ってきてよ」と言われた少年が、なんとかバザーに行くことに成功するも何も買えないでいる話だ。内容だけを語れば、まさしくこんな2行程度のあらすじに収まってしまうものだし、そこにはなんらの起承転結序破急があるわけではなく、唐突に始まって唐突に終わる。果たして少年はバザーで何か買えたのだろうか。買った品を意中のガールにプレゼントすることはできたのだろうか。その時の相手のリアクションは?など、気になることは山ほどあれ、物語は何も買えずにバザーをふらついているシーンで唐突に終わりを迎えるのである。その後の彼にどんな未来が待っているのか、読者は知る由もないし、術もない。これは、往来ですれ違う全ての人に未来があり、ドラーマがあるにも関わらず、ただすれ違うだけの他者にはそれを知る術がないということに似ている。
 我々は常に自分のドラーマを生きている。何かのきっかけで、他者のドラーマと交差することや、時にはそれが織り重なって壮大な物語を織ることもあるかもしれないが、基本的には一人の人生というのは一本の糸のようなものである。今作は、その一本の糸が伸びていく様を2Dの視点で眺めているだけで、時折交差していく他の線のことくらいは確認できるものの、それらが編み込まれてどのような模様を描くのかまでは見ることができない。しかし、一本一本の糸がどんな色をしているのか、その断片は見ることができる。そして、それぞれは決して重なることのない15本の糸を並べて見たとき、それらの糸が複雑に絡み合った20世紀初頭のダブリンの姿を想像することが叶うのである。
 
いやはや、しかし、老若男女。善人もいれば悪人もいる。希望に満ちた人物がいれば、この世の全てを呪っている人物もいる。自分の境遇にフラストレーションを募らせている奴もいれば、その境遇を自分の子供に背負わせる奴もいる。各章は断片ではあるものの、確かにその時その場所にいたであろう人生を描いており、じっくりと時間をかけて読むにはぴったりの作品だとも感じましたね。私は、その細かすぎる描写を「ノイズ」なんて言いましたが、もうちょっと解像度を上げて、一つ一つのシーンを丹念に読み解していくと、そこに現れる光景はより鮮明になることは間違いないでしょう。そして、それが可能なほどに、微に入り細を穿って描写される光景や心理描写は、まさしく自然主義的リアリズムというのにぴったりな気がします。

各章で描かれる物語の主人公も本当に様々なキャラクターをしており、個人的には「楽しそうにやってる友人を妬み、自分でも詩を書いてメイクマネーしようと画策するも、まだ小さい赤ん坊の泣き声にイラついて声を荒らげてしまい、妻に怒られる男の話」(『小さな雲』)や、「うだつの上がらない男が、酒に酔った勢いで上司に口答えしてしまい、そのイライラを解消するためにまた酒を飲んで、家に帰って子供を殴る話」(『対応』)、「ひたすら娘のギャラで揉める母親の話」(『母親』)なんかは、登場人物のどうしようもなさが、なんともいえず魅力的にも感じたりもしましたが、やはり終章となる第15章『死せる人々』が面白かったですね。【ネタバレ注意!】にはなってしまいますが、男が年末のパーティを無事オーガナイズして、大満足の年の瀬を迎えることに成功、今晩は妻とヨロシクやろうかなって気分が盛り上がりまくっているときに、いきなり妻から少女時代の恋愛の話をされて「え?なに?君は?まだその少女時代の恋愛相手のことを想ってるの?若くして亡くなったその相手のことを?俺が、今日、こんなにも完璧にパーティ仕切ってる間も、ダンス踊ってる間も、君は、俺の瞳をその恋愛相手の瞳に重ねてたってわけ??」となってしまって、現実がさらさらと崩壊していく物語なんですがね。雪に包まれた年末のダブリンが示す灰色の世界が、妻の亡き恋愛相手のいる死後の世界と徐々に接続していくような描写で、美しいなって思いましたね。衝撃的な告白をしてさっさとベッドに横になった妻に対して、主人公のゲイブリェルが抱く感情描写がすごく気に入ったので、それを引用して終わりにしましょう。主人公の情けなさと達観、そして愛の正体へと至る、見事な内面描写だなと思いました。

〈部屋の空気がぞくぞく肩にしみた。(中略)一人びとり、みな亡霊になっていく。年齢とともに、みじめに褪せ衰えていくよりは、なにか熱情のまばゆい陶酔にみちて、忽然と彼岸の世界へおもむくほうがましなのだ。(中略)寛容の涙が、ゲイブリェルの眼にあふれた。これまでいかなる女性にもこのような気持ちになったことはなかった。だが、このような感情こそ愛というべきものに相違ない、ということを知ったのだ〉。

ほんとはこの(中略)こそが繊細な描写となるのかなとも思うので、気になる方はぜひ手に取ってみてくださいませ。読みづらいです。

というわけで、1月の課題図書はジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』でした。2月は山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』です。新生活の準備を始める季節にはぴったりですね。ダブリンにとってはロンドンですね。読んでいきましょう。

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