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【41冊目】ここは退屈迎えに来て / 山内マリコ

明日はお休みです。
本日は17時-24時半です。

2月が音もなく過ぎ去ろうとしておりますね。試練の冬から芽吹きの春へ。季節は時にソフトに、時にハードに移ろっていくわけなんですがね。当店は明日お休みなわけですから。本来なら月初の当店お決まりも、本日、月末にやっていこうというところですね。そう。つまりは。ウィグタウン読書部です。

さて。
2月の課題図書は、山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』。地方都市で過ごす少女たちが、トーキョーに憧れたり憧れなかったり、地元に嫌気がさしたりささなかったり、狭い人間関係の中で広い世界に出た自分を夢見たり見なかったりする短編、8編が収められたアンソロジーなんですがね。私なんていうのはトーキョー出身なものですから。いえ、正確にいうと産まれは北海道なのですが、まぁ、親が転勤族というやつで、中学にあがる頃にはトーキョーへ引っ越し、それから先はずっとトーキョー暮らしなので、ほぼトーキョーといっているわけなんですがね。東京モンの感覚としては、やはり『上・京・物・語』のような『木綿のハンカチーフ』のような、つまりは「キラキラ光る都会で働く私と、地元に残してきたフィアンセ」みたいな感覚がまるでない。上京の覚悟も、せせこましい人間関係に対する辟易も、矮小な自意識も、屈折も、野望も、夢も、まるでない。しかし、ないというのは体感としてないのであって、そういった感覚に対する理解がないのかというと、それは痛いほどよく分かる。何も成し遂げていない自分と、何者かになりたいという焦燥。ここではないどこかへ行けば、私はもっと輝けるのではないかという希望。己が努力不足を環境に責任転嫁して貪る惰眠。そんなものははっきり言って地方都市だろうが、トーキョーだろうが、どこにでもあるのであって、ただ、東京モンの私がそれを言うと、きっと「いやアンタはなんも分かってない。物質的にも精神的にもトーキョーがいかに恵まれているか。その環境がどれだけ羨ましいものなのかが、アンタはなにも分かってない」とか言われるんだろうな、とも思う。そんなこと言われたってねぇ。本作は、出身地ガチャでハズレを引いた少女たちが、その配られたカードでいかに自己実現を図るかというアンソロジーです。読んでいきましょう。

さて。
そもそも私が本作を手に取ったきっかけというのがあるんですがね。あれは2016年。ゴースト・コースト・ヒップホップユニット「Moe and ghosts」と、ミニマル&変拍子で独特の音楽景色を見せるバンド「空間現代」のコラボアルバム『RAP PHENOMENON』に収録された楽曲『可笑しい』なんですがね。ラッパーのMoeがリーディングと呼べるようなフロウで漂う中、空間現代のミニマルな演奏が感情を呼び起こすこちらの楽曲に使用されていたテキストこそ、今回の『ここは退屈迎えに来て』収録の冒頭の一編『私たちがすごかった栄光の話』の一部なんですがね。私はこの楽曲が好きで、なにが好きって、やっぱりテキストが好きで、例えば、延々とロードサイドに立ち並ぶチェーン店の巨大看板を羅列しては「こういう景色を"ファスト風土"と呼ぶのだ」と嘆いている文化系崩れのオッサンである須賀さんと、そんな須賀さんに「いい年こいてなに言ってんだこのオッサン」と呆れながらも、他人事とは思えない主人公。そこへいくと私なんていうのは、学生の頃からライブハウスに入り浸り、卒業後はしばらくイベント小屋で首までどっぷりとサブカルに浸かるという毎日を過ごしていたものですから。はっきり言って、この「文化系崩れの須賀さん」の気持ちがめちゃめちゃ分かる。サブカルで生きている人間は、誰しもがこの「文化系崩れの須賀さん」になることを恐れており、常にそうならないようにと気を配っている。そのために「自分がいかに文化的な人間であるか」をことあるごとにアピールしようとする。ちょうど、私がこの文章の冒頭で「Moe and ghosts」というラップユニットの名前を出したように。彼らは年を重ねてもなにも成し遂げていない自分の現状に気付き、自分がまだまだ現役世代であることをアピールしようとする。クリエイターとしての能力も、キュレーターとしての能力も、アナリストとしての能力も持たない「文化系崩れ」の人々は、常に自分よりも文化レベルの低い人たちを見下している。そして〈俺だってリトルモアから写真集出したかった〉だの、〈俺がこの数年でどんだけEXILEのバラードをカラオケで聴かされたか、お前分かるか?〉だの言いながら、いまだに"あの頃"の「アイス・キューブ」だの「ウータン・クラン」だのを聴く。そんな彼らに対する主人公の目線は冷ややかで〈私も昔は、中年になっても若者文化を解している人をカッコいいと思っていたけれど、三十過ぎると考え方も保守的になって、結婚して子供もいるのになに言ってんだこのオッサン、と呆れてしまう〉。この須賀さんと主人公の対比こそ、都会と田舎の対比であり、それでも〈呆れつつ、しかし他人とは思えない〉と言う主人公の視点こそ、田舎の退屈さと、何者かになることを諦めきれない地方在住者の屈折を表している。

そんな地方在住者のガールズの屈折を描き出し続ける連作である本作であるが、それぞれの短編を通じて登場するのが「シーナ」という同世代の男性だ。シーナの学生時代はいわゆるスクールカーストトップの男子で、女子の憧れの的。卒業すると大阪という都市部へ出て行ったが、数年後地元に帰ってきて結婚。子供もできて、現在は自動車教習所の教官として働いている。各短編の主人公たるかつての少女たちは、キラキラと輝いていた学生のころのシーナと、地元に戻ってきてすっかりしょぼくれたオッサンになっている現在のシーナに、都市部への憧れと地方出身者の限界を重ねる。一方のシーナはというと、かつての地元のヒーローで、大阪という大都市を経験しながらも、自分の経験を居丈高に語ることも、出羽守になることもせず、自分の現在を見つめている。他の登場人物がキラキラしていた頃のシーナの幻想を未だ押し付けてくる中、当の本人だけはしっかりと現実の今の自分だけを見つめているのだ。シーナは決して”あの頃”を語らない。"あの頃"どころか、大阪で過ごしていたという数年間のことも一切語らないのだ。これは、田舎を出たことがない、或いは出戻ってきてなお自分のキラキラした生活に対する憧れが消えないガールズたちとの対比になっていて、それはそのまま都会の新自由主義的生活と、田舎の封建的生活の対比にもなっている。その関係は、男女の恋愛関係にも深く入り込んでいて、例えば一編目でシーナと久しぶりに連絡を取り合い、胸のトキメキを覚えていたガールは、久しぶりの再会を果たした後になると「シーナは普通にお父さんでした。ちゃんと、普通の、なんにもこじらせていない普通の人でした」と言ったりする。二編目で、都落ちして地元で婚活に励む女性が言う。〈この町では若い感性はあっという間に年老いてしまう。野心に溢れた若者も、二十歳を過ぎれば溶接工に落ち着き、運命の恋を夢見ていた若い女は、二十四歳になるころには溶接工と結婚し家庭におさまった〉。その町では、行き場の無いくすぶった人たちの〈若さがフツフツと発酵〉していく24時間営業のファミレスがあり、〈思い出はみんな、放置したマックのコーラみたいに薄まっていく〉。若者はみな、〈最初にありあまる輝きを与えられて、ゆっくりとそれをなくしていく〉。大阪から出戻ったシーナは、まさしくその田舎を象徴する存在として描かれており、そんな「退屈」な日常から、白馬の王子さまに向かって「迎えに来て」と訴えているのが本書である。

そんなことを言うと、田舎には希望はないのかという気分にもなるわけなんですが、果たして本書は田舎の希望を描き出しはしない。私なんていうのは『天然コケッコー』的な生活にも憧れたりするわけなんですが、今作で描かれるのはもっと「都市的な田舎」であって、その都市が刻一刻と衰退していく音を聞きながら生活しているような、息の詰まる空気感である。これは、最初にもあげたサブカル界隈とも大変に共通する空気感で、それは人生において「何かをバズらせないといけない」と躍起になっているような空気感で、そう考えると、郊外の町を描いた本作が、急に都市に過ごす人々の空虚な心理に溶け合っていく。都市に生きる我々も〈若さを発酵〉させながら、がむしゃらにもがいているもので、みなの心の中に、今作で描かれるロードサイドの風景は広がっているということもできそうですね。もがくことができる環境があるかないか、というのも重要なところな気もしますが。封建的な暮らしから、自由主義的な生活へ。満たされぬ思いを持つ誰もが、心の中で常に願っていることなのでしょう。「ここは退屈迎えに来て」と。

というわけで2月の課題図書は山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』でした。3月はH・P・ラヴクラフト『ラヴクラフト全集 1』です。そんなに退屈ならば迎えにいってやろうって魂胆ですね。読んでいきましょう。

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