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「スタンス」を得る効用について。


「あなたのスタンスはなんですか?」


現代解き明かされている宇宙の真理は、
大きいホワイトボードに描かれた小さな点くらいのものだ。

それが、私のスタンスです。

[スタンス]
stance=身構え。attitude、posture、part、carriage、pose
英語のstanceからきたカタカナ。
「立場」や「態度」を示す言葉として、様々なシーンで利用されている。
物事に取り組む際の姿勢や態度を示す場合や、スポーツにおける立ち方や歩幅を示す場合もある。

と、されている「スタンス」

私は、スタンスを自分軸を構成する考え方のひとつと捉えています。

価値観、ベースとなる考え方、心構えなど様々に言い換えることができ、
要するに私と私以外との向き合い方の根幹をなすもの。
それを、私の中では「スタンス」と呼んでいます。

なぜそんな話をするのかというと、
スタンスがないままに語ることは、とても難しい所業だと身をもって味わったから。


ーー「note」をはじめよう。

そう思い立ったものの、ひとつめの記事をあげるのに、
かなりの長い時間がかかりました。

その後、ふたつめの記事があげられないまま、
数ヶ月、いや年といっていいのでは?
それくらい時間が空いてしまったんです。

発したいことはたくさんあるのにも関わらず。

さて困った、と他の発信者の方々を見回してみても、筆がのらない。
いや、嘘。
文章はある、けど、あげられない、掲載できない。

なぜなんだろうと、悩みに悩んだ末わかったのが
「スタンス」でした。

自分で言うのもなんですが、
ワタクシ、現代の常識に収まらない考え方を持っています。

それなのに、現代の常識と言うプラットフォームに収まろうとしたのがそもそもの間違い。
身動きできなくなった原因でした。

20代の頃は、明確にスタンスがわかっていなくても走り出せた。
それは、漠然としつつも確固たる「ナニカ」があったからです。

歳月を経るにつれ、その「ナニカ」に向き合う時がやってきます。
漠然としていても平気だったのは、単にそのタイミングではなかっただけ。
その時が近づくにつれ、漠然としているだけでは以前のような安心感が得られなくなってくるんです。

それが、「ナニカ」と言う自分のコアがグラウンディングする場所。
つまりは、「スタンス」です。



私のスタンスは、人呼んで「黒ぽちスタンス」
それは、決して「今」を否定するものではありません。

科学が発達? 
ーーとんでもない、まだほとんど解明されてなんてないし、むしろ間違っていることだっていっぱいある。

今は文化的で進歩してる?
ーーとんでもない、それならなぜまだ争っているの?苦しんでいるの?

「黒ぽちスタンス」は、
現状を最適と安住することを望まない。
見えなくても、あるものがあるんだろうと期待に胸をときめかせる。
最高の上の最高もあるんだろうと可能性を広げる。
わからないことを、悪いことと断じない。
断じるほどの根拠などどこにもない。

限界という名前を付けられた、薄いヴェールを破ってその先へ進む勇気をくれるものです。

この考えに出会った時、私は衝撃を感じました。
頭をガツンとされるような、脳味噌取り換えるくらいの衝撃。

今まで信じていたものには、何の根拠もなく
むしろ鳥籠に押し込めるための詭弁であったことに気づいたんです。

それまでも、
人の発する「言葉」と、聞こえてくる「情報」の食い違いには気づいていました。
それでも「言葉」の方を信じたくて、言葉とは異なる「情報」に目を瞑ってしまいました。
その度に傷つき、思い知るのです。

ーー言葉にもならない「情報」の方が、本心じゃないか。

聞こえることだけを信じ、
見えるものだけを信じるのは、
安心するかもしれません。

でも、
それが世界のすべてではない。


あなたのスタンスはどんなものですか?
もちろん、ひとつではないと思っていますよ。

あなたの価値観、ケースバイケースで変わることもあるでしょう。

それを明確にすることとは、本当の自分と向き合うこと。
あなたのコアが立つ場所です。

あ〜、認めたらスッキリした。

歩き出す時は、出発地点があります。
飛び上がるときには、ジャンプ地点があります。
コアがグランウンディングしていないのは、風に流される風船と同じ。

あなたのスタンスと向き合ってみませんか?
「あなたのスタンスはなんですか?」



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