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デフリンピックの独創性ってなんだろうか?

タイトルがかなり無理矢理にまとめてしまった感があるが….それは置いといて.

複雑な心証を抱えながらも,ついに東京オリンピック・パラリンピックが開催し終えたのをSNSで眺めていた.

開催し終えるまで様々な苦労を抱えた関係者,選手達の皆さんも本当にお疲れ様としか頭が上がらない.

元々,私個人としては東京オリンピック・パラリンピックが開催されることに対しては反対だった.
新型コロナウイルスの世界的大流行(パンデミック)による影響で,練習環境の確保や生命危機に伴う日常生活の制限などから,試合/勝負までのプロセスすらも,先進国から発展途上国との間に差別が大きく生じてしまう.
それによって,同じ舞台に立ったとしてもそれぞれの選手が積み重ねてきたもの自体に大きく差が出てしまうじゃないかと懸念していたのもあって,東京オリンピック・パラリンピックが開催されているのをテレビや生配信などで視聴しないようにし,SNSでの速報ぐらいしか見ないようにしていた.

そして,ついに全てが終わり,落ち着いたなと実感しつつあるときに,とある人から「デフリンピックはパラリンピックと一緒になった方が良いと思う?」と聞かれた.

折角なので,これを機にして,自分が考え,感じたことをまとめてみようと思い至った経緯である.
(もしかしたら,どこかのタイミングでまとめようと考えていたからかもしれない)

そもそも,私はかつてデフリンピックを目指し,陸上競技に励んできた.偶然にも目の前に降りてきたチャンスを逃さないで手に入れようとした結果,金メダルを獲得した(てしまった)人でもある.

その前に,なぜパラリンピックにろう・難聴者(聴覚障害者)は参加できず,デフリンピックがあるのかを説明しなければならないが,それは下記にある複数の記事を読んでいただけた方が早いと思うので,ここでは省いておく.


また,パラリンピックでも別の課題があると思っていたことが,この記事にてうまくまとめていただいているので,ここでも記事を紹介するのみで省く.

パラリンピックが開催されたから障害の理解促進が進むのは良いことだけれど,どうやって障害を個人モデルではなく社会モデルとして理解してもらえるのにはと常に考え続けられる内容でもある.


さて,パラリンピックと違い,デフリンピックは用意された舞台がオリンピックと同様な環境であり,ルールや会場は同じであり,審判の合図やスタート信号の合図を音声情報から視覚情報に代替することになっている.

ある意味,オリンピックなどのトップアスリート達が繰り広げる舞台をマイナーチェンジしたものと見られても仕方ないと言われたらそうだとしか言い返せない.

実際に下記の調査でも同様な意見が挙げられている.

齊藤まゆみ. "< 研究資料> デフリンピック競技映像を視聴したアダプテッド・スポーツに関心のある体育専攻学生が指摘する競技の特徴." 体育科学系紀要 35 (2012): 103-109.
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/27359#.YVjxOxDP3zc


そして,今私が取り組んでいる研究の1つである,触覚刺激を用いたスタートシステム「HaptStarter」の実装が進む.または各デフアスリート(ろう・難聴者の選手)がトレーニングするのに必要な音声情報を可視触化するテクノロジーの研究開発が進めば,その瞬間,デフリンピックの意義は一体何だろうかと追い詰められてしまうのではないかと私個人的に懸念している.

逆に言えば,ろう文化に特化した舞台をテクノロジーを主に用いて創作する(※1)ようになっていけば,デフリンピックの独創性は尚更増していくじゃないかと思う.

※1 ルールや審判などの進行に必須な音声情報をただ可視触化する,スポーツをただ置き換えるのではなく,ろう文化に特化した本質を持つスポーツを新たなに創造しても良いではないかというニュアンスをかなり強く持ち合わせている

そうなってきた時が改めて「デフリンピックとパラリンピックを統合すべきか?」の議論が始められるタイミングだと捉えてて,今はあれこれだと正解や意見を言えないというのが正直な気持ちである.

まとまりのない流れになってしまったが,結論からすると,

まず「デフリンピックとパラリンピックを統合すべきか?」の議論を始める前に,「デフリンピックはオリンピックのマイナーチェンジで良いか?」の点で議論を始めていくと共に「デフリンピックの独創性を活かせるような舞台を用意するためにはテクノロジーをろう・難聴者がどう活用していけるようにすべきか?」の議論ができる素材を集められなければならない.

が私の考えである.

そうなってきた時,改めて「デフリンピックとパラリンピックを統合すべきか?」を議論していくと共に,「オリンピックとパラリンピックを統合すべきか?」も議論できるようになってくるのではないかと薄々思い描いている.

デフリンピック自体が勿論パラリンピックと同様に社会における障害への理解促進を促してくれるのはあながち間違ってはいないし,これまで関係者の皆さんが地味に1つ1つと運営を安定させていくために働きかけてきたりしてきたのはもちろん感謝している.

だからといって,本質を真正面から立ち向かわないで運営を安定していくためには?とか理解促進のための広報とかだけひたすら頑張っていくのも少々何か違うのでは?と違和感を己の中で己でずっと押し騙していくのも理不尽だなと最近考えるようになりつつある.

だって,今,この世の中にいる私達が何も答えを出さないで,未来の作り手となる人に負の遺産として残していけるのか.同じように理不尽な気持ちを抱えさせて良いのか.それを考えたら私個人は本当にみっともないなと己で己を幻滅してしまうだろう.

だから,私は「だから今の私達はどうしようというんだ?」,「これまでの積み重ねてきた歴史を否定しているのか?」とかは当然当たり前のように言われるんだろうなとどこかで覚悟し,1つ1つ受け止めようと心のどこかで誓おう.ただ,これらは決して私個人の意思で決まるのではなく,対話性のある議論の場を設けていくべきではないかとを主張しているだけであることをはっきりと記す.

さて,どちらの議論が先に始まるんだろうか?と密かに期待してしまっている私もいるが,そろそろ「デフリンピックはオリンピックのマイナーチェンジで良いか?」を議論できる場を準備しなくてはと思い描きながら色々と自分を追い詰めていく日常.


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